やりがい
「今年から新しく入社いたしました、梅津達也です。どうかよろしくお願いいたし……あ……?」
「あら……?」
もう二度と、出会うことはないと思ってたのに……
あの日から約1年。何とか今の仕事に慣れて、やりがいも見つけられた。
昇進や昇給の話なんてのはまだでないみたいだけど。
今日も一仕事終えて、時計を見れば5:24。珍しく、残業も無く帰れそうだ。
「じゃ、お先失礼しまっす」
「お、今日は早いんだな」
「ええ、書類もまとまりましたしね。酒でも飲むことにしますよ」
「おいおい、羨ましいやっちゃな!」
同僚からの嫉ましい目線も、今日に限っては清清しささえ感じる。
荷物をまとめ、上着を羽織ると、そこで声をかけられた。
「あらま、今帰り?」
「え、あ。ハイ。チーフも?」
「そうなのよ。今日は久々にのんびりするわ」
「……そっすか。羨ましいっすね」
「あなただって同じでしょ?」
「あ、そういやそうか、何言ってんでしょうね俺、ハハハ」
外に出るとまだ夕日が目に眩しいくらいで、家に帰る気なんてそうそう起きなかった。
どっかの居酒屋で、独り酒でも飲んでから帰ることに決め、そうと決まれば、と足を進めようとした時。
「ね〜ぇ」
「うわッ!? ち、チーフ?」
「暇、なんでしょ? 一緒に飲まない?」
「え、あいや、ボクこれからちょっと用事がですね……」
「嘘つかないの。ほら、行きましょ?」
何てこった。とんだ災難だな。
彼女の名前は柏木敦子。俺の上司で、今進めてるプロジェクトのチーフプロデューサーだ。
歳の頃は26で、会社で企画されたミスコンでも真っ先に推薦エントリーされるほどの美貌を持っている。
だが、はっきり言おう。俺は、この人が苦手だ。
明るくて、真面目で、美人で、おまけに可愛らしくて。
女の人に免疫が無い自分は、ちょっと話しかけられただけでも妙に緊張してしまって、なんだか距離が取り辛い。
ましてやそれが上司だってんだから、神様も相当性質が悪いようだ。
結局、引きずられるように、会社の飲み会でおなじみの居酒屋へと連行されるハメになった。
「それじゃ、かんぱーい!」
「ハァ……」
なんだって俺はこんな店で女と二人っきりで飲んでるんだ……
そんな気持ちをため息に乗せ、ビールと一緒に飲み込む。
ほろ苦い味はこの感情と似ていて、ただ喉元を過ぎても消えない辺りがもどかしい。
少し節目がちになりながら、目の前の枝豆に手を伸ばした。
「それにしても、奇遇、ってあるものね」
「そうっすね。チーフと帰りが同じなんて、初めてじゃないっすか?」
「んもぅ、そうじゃないでしょ?」
「と、言いますと?」
「とぼけるつもりなの? カ・ズ・ヤ・君」
「……その呼び方はしないでください、ヒトミさん」
「あら、お相子じゃない」
もう一度言おう。俺は、この人が苦手だ。
明るくて、真面目で、美人で、おまけに可愛らしくて。ついでに言うなら、俺のハジメテの人。
本当の初対面は、もう三年も前になる。
彼女と知り合ったのは、所謂出会い系掲示板。
当時まだ17歳の、ケツの青いガキだった自分は、幾度と無く連絡を取り合い、そして一度だけ、という条件で関係にこぎつけた。
カズヤとは、その掲示板で使っていた偽名だ。無論、彼女もヒトミなんて偽名を使っていた。
「おっどろいたわー、あの頃のボウヤが、今じゃこんなに立派になって」
「やだな、近所のオバサンじゃないんですから」
「あら、失礼ね! 四捨五入すればまだ20よ!」
「その台詞も近所のオバサンみたいですよ。ついでに言えば、四捨五入したら30です」
「なっまいきねー、あったまきちゃう」
そう言って、ケラケラ笑う。酒を呑んだら笑い上戸になる性格は、相変わらずのようだ。
「でも、世間って狭いものね。一年前、貴方が入社してきた時は、流石に目を疑ったわ」
「俺も同感です。まさか、この会社に勤めてるなんて思ってもいませんでしたから」
「案外私を追ってきたんじゃないの?」
「そこまでするほど度胸も甲斐性も俺にはないですよ」
「あの時はあんなに激しかったのに?」
「……その話はやめて下さい」
「フフッ、ごめんなさいね」
生憎座席は満席だったようで、俺達は必然的に、カウンター席で隣り合って座る形になっている。
彼女の、少し酒気を帯びてきた吐息が少し艶かしく感じられて、妙に体が熱い。どうやら、俺も酔いが回ってきたようだ。
更にグラスを2、3開けて、帰れなくなる前にタクシーでも呼んでおこうと携帯を取り出そうとして、
「おっと」
「どうしたの?」
「スイマセン、携帯を落としてしまいまして」
ポケットから滑り落ちた携帯を拾い上げようとした直後に、彼女の手が、俺の、膝の上に、おかれた。
「……ち、チーフ?」
「敦子。どうせならそう呼んで、達也君」
「え、っと、あ、敦子さん? 何をしてらっしゃるので?」
「……」
どうせからかっているだけだ。そう思わなければ、自分を保っていられそうにない。
「……ねぇ、達也君」
「は、い」
「あの日、私は『一日限りの関係』。そう言ったわよね」
「だから、その話は」
「約束、破ってもいいかしら?」
ドクン、と、心臓が止まるほどの勢いで高鳴る。
それはそのまま留まることなく、延々と早鐘を打ちだす。
「あの日の関係はヒトミとカズヤ君の関係。嘘だらけの、偽りの関係」
「あ、つこ、さん?」
「でも、本当の関係には、まだなってないわよね。だから、これから本当の関係を作らないかしら?」
しだれかかるように、徐々に体を預けてくる敦子さん。
その艶やかな唇が、その吐息が、とろけた目が、心地よい重みが、肩までかかる綺麗な黒髪が、上気した肌が。
その全てから、目が離せなくて、俺は、手を、伸ばして―――
「冗談はその辺にしましょう、チーフ」
その肩を、押し退けた。
「……プッハハハハ! やだ、わかった?」
「いくらなんでも、俺は昔ほど子供じゃないですよ」
「なら、昔なら引っかかってくれたのかしら?」
「どうですかね。案外コロっとイってたかも」
「じゃあ私もまだまだイケルかしらねー」
今度こそ落ちていた携帯を拾って、タクシーを呼び寄せる。
サイフから諭吉を取り出し、カウンターの上にそっと置いた。
「ここは俺が払います。タクシー呼んだんで、もう帰りますね」
「ダメよ、私これでも一応上司よ? 後輩に払わせるなんて」
「前祝って奴ですよ。……結婚なさるんですね、おめでとうございます」
「……知ってたの?」
「チーフの机の上に、指輪が置いてあるのが見えましたから。今ははずされてるようですが」
「気遣いぐらいは出来るのよ、これでも」
胸ポケットから指輪を取り出して、左薬指にはめると、それをそっと、愛おしそうに撫でる。
「来月頃、寿退社って形になるかしら? 貴方とは短い付き合いだったけど、それなりに楽しかったわよ」
「今すぐやめるような言い方はしないでくださいよ。……旦那さんとは、もう長いんですか?」
「付き合ってから二年になるわ。あの人ったら、これを渡す時もうがっちがちに固まっちゃってね」
「あら……?」
もう二度と、出会うことはないと思ってたのに……
あの日から約1年。何とか今の仕事に慣れて、やりがいも見つけられた。
昇進や昇給の話なんてのはまだでないみたいだけど。
今日も一仕事終えて、時計を見れば5:24。珍しく、残業も無く帰れそうだ。
「じゃ、お先失礼しまっす」
「お、今日は早いんだな」
「ええ、書類もまとまりましたしね。酒でも飲むことにしますよ」
「おいおい、羨ましいやっちゃな!」
同僚からの嫉ましい目線も、今日に限っては清清しささえ感じる。
荷物をまとめ、上着を羽織ると、そこで声をかけられた。
「あらま、今帰り?」
「え、あ。ハイ。チーフも?」
「そうなのよ。今日は久々にのんびりするわ」
「……そっすか。羨ましいっすね」
「あなただって同じでしょ?」
「あ、そういやそうか、何言ってんでしょうね俺、ハハハ」
外に出るとまだ夕日が目に眩しいくらいで、家に帰る気なんてそうそう起きなかった。
どっかの居酒屋で、独り酒でも飲んでから帰ることに決め、そうと決まれば、と足を進めようとした時。
「ね〜ぇ」
「うわッ!? ち、チーフ?」
「暇、なんでしょ? 一緒に飲まない?」
「え、あいや、ボクこれからちょっと用事がですね……」
「嘘つかないの。ほら、行きましょ?」
何てこった。とんだ災難だな。
彼女の名前は柏木敦子。俺の上司で、今進めてるプロジェクトのチーフプロデューサーだ。
歳の頃は26で、会社で企画されたミスコンでも真っ先に推薦エントリーされるほどの美貌を持っている。
だが、はっきり言おう。俺は、この人が苦手だ。
明るくて、真面目で、美人で、おまけに可愛らしくて。
女の人に免疫が無い自分は、ちょっと話しかけられただけでも妙に緊張してしまって、なんだか距離が取り辛い。
ましてやそれが上司だってんだから、神様も相当性質が悪いようだ。
結局、引きずられるように、会社の飲み会でおなじみの居酒屋へと連行されるハメになった。
「それじゃ、かんぱーい!」
「ハァ……」
なんだって俺はこんな店で女と二人っきりで飲んでるんだ……
そんな気持ちをため息に乗せ、ビールと一緒に飲み込む。
ほろ苦い味はこの感情と似ていて、ただ喉元を過ぎても消えない辺りがもどかしい。
少し節目がちになりながら、目の前の枝豆に手を伸ばした。
「それにしても、奇遇、ってあるものね」
「そうっすね。チーフと帰りが同じなんて、初めてじゃないっすか?」
「んもぅ、そうじゃないでしょ?」
「と、言いますと?」
「とぼけるつもりなの? カ・ズ・ヤ・君」
「……その呼び方はしないでください、ヒトミさん」
「あら、お相子じゃない」
もう一度言おう。俺は、この人が苦手だ。
明るくて、真面目で、美人で、おまけに可愛らしくて。ついでに言うなら、俺のハジメテの人。
本当の初対面は、もう三年も前になる。
彼女と知り合ったのは、所謂出会い系掲示板。
当時まだ17歳の、ケツの青いガキだった自分は、幾度と無く連絡を取り合い、そして一度だけ、という条件で関係にこぎつけた。
カズヤとは、その掲示板で使っていた偽名だ。無論、彼女もヒトミなんて偽名を使っていた。
「おっどろいたわー、あの頃のボウヤが、今じゃこんなに立派になって」
「やだな、近所のオバサンじゃないんですから」
「あら、失礼ね! 四捨五入すればまだ20よ!」
「その台詞も近所のオバサンみたいですよ。ついでに言えば、四捨五入したら30です」
「なっまいきねー、あったまきちゃう」
そう言って、ケラケラ笑う。酒を呑んだら笑い上戸になる性格は、相変わらずのようだ。
「でも、世間って狭いものね。一年前、貴方が入社してきた時は、流石に目を疑ったわ」
「俺も同感です。まさか、この会社に勤めてるなんて思ってもいませんでしたから」
「案外私を追ってきたんじゃないの?」
「そこまでするほど度胸も甲斐性も俺にはないですよ」
「あの時はあんなに激しかったのに?」
「……その話はやめて下さい」
「フフッ、ごめんなさいね」
生憎座席は満席だったようで、俺達は必然的に、カウンター席で隣り合って座る形になっている。
彼女の、少し酒気を帯びてきた吐息が少し艶かしく感じられて、妙に体が熱い。どうやら、俺も酔いが回ってきたようだ。
更にグラスを2、3開けて、帰れなくなる前にタクシーでも呼んでおこうと携帯を取り出そうとして、
「おっと」
「どうしたの?」
「スイマセン、携帯を落としてしまいまして」
ポケットから滑り落ちた携帯を拾い上げようとした直後に、彼女の手が、俺の、膝の上に、おかれた。
「……ち、チーフ?」
「敦子。どうせならそう呼んで、達也君」
「え、っと、あ、敦子さん? 何をしてらっしゃるので?」
「……」
どうせからかっているだけだ。そう思わなければ、自分を保っていられそうにない。
「……ねぇ、達也君」
「は、い」
「あの日、私は『一日限りの関係』。そう言ったわよね」
「だから、その話は」
「約束、破ってもいいかしら?」
ドクン、と、心臓が止まるほどの勢いで高鳴る。
それはそのまま留まることなく、延々と早鐘を打ちだす。
「あの日の関係はヒトミとカズヤ君の関係。嘘だらけの、偽りの関係」
「あ、つこ、さん?」
「でも、本当の関係には、まだなってないわよね。だから、これから本当の関係を作らないかしら?」
しだれかかるように、徐々に体を預けてくる敦子さん。
その艶やかな唇が、その吐息が、とろけた目が、心地よい重みが、肩までかかる綺麗な黒髪が、上気した肌が。
その全てから、目が離せなくて、俺は、手を、伸ばして―――
「冗談はその辺にしましょう、チーフ」
その肩を、押し退けた。
「……プッハハハハ! やだ、わかった?」
「いくらなんでも、俺は昔ほど子供じゃないですよ」
「なら、昔なら引っかかってくれたのかしら?」
「どうですかね。案外コロっとイってたかも」
「じゃあ私もまだまだイケルかしらねー」
今度こそ落ちていた携帯を拾って、タクシーを呼び寄せる。
サイフから諭吉を取り出し、カウンターの上にそっと置いた。
「ここは俺が払います。タクシー呼んだんで、もう帰りますね」
「ダメよ、私これでも一応上司よ? 後輩に払わせるなんて」
「前祝って奴ですよ。……結婚なさるんですね、おめでとうございます」
「……知ってたの?」
「チーフの机の上に、指輪が置いてあるのが見えましたから。今ははずされてるようですが」
「気遣いぐらいは出来るのよ、これでも」
胸ポケットから指輪を取り出して、左薬指にはめると、それをそっと、愛おしそうに撫でる。
「来月頃、寿退社って形になるかしら? 貴方とは短い付き合いだったけど、それなりに楽しかったわよ」
「今すぐやめるような言い方はしないでくださいよ。……旦那さんとは、もう長いんですか?」
「付き合ってから二年になるわ。あの人ったら、これを渡す時もうがっちがちに固まっちゃってね」