あわないアンタが嫌いだ。
「どうして9×9は81なのかな」
生徒会長は俺の目の前、雨の跡が残る屋上のコンクリを踏みしめて、独りごとのようにつぶやいた。
白色の塗装が剥がれて錆びつき、今日明日にぽっきり折れても別段驚かない程脆く見えるフェンスに 両肘をつき寄りかかっている。視線は遠く、カラスが鳴く夕日のほうへ。
右手にはナットシャーマンナチュラル。それを口元へ運び、ゆっくりと胸に落としたあとで、生徒会長は俺のほうへ振り向いて言った。お前、どう思う?
「喋りながら煙はくのやめてくださいよ。そんな重いの、教師とすれ違ったら一発でバレるじゃないっすか」
俺は、指先だけを軽く振って顔を顰めた。俺はいつでもどこでも品行方正な高校生なんですよ?外面だけのあんたとは違うんだ。
生徒会長は、フェンスに紺色のセーターの背を預け、にやっと笑って言った。
「気にすんな、生徒会室戻ったらファブリーズ貸してやんよ。無臭タイプと草原の香りから選べます。で、どう思う?」
「そりゃ、9×9が81になるのは、九九の式でそうなってるからでしょう。9を9回足したら81になります、って。それ以外にどういう理由があるってんですか?」
俺は、抗議の意を込めて、わざとらしくため息をつきながらそう言った。
この人の考えていることは、いつも大抵よく分からないが、今回もいつも通りよく分からない。
「お前さー、小学校で、はじめて九九を覚え始めたときのこと、覚えてるか?」
生徒会長は右の胸ポケット、本来は生徒手帳が入っているべき場所から携帯灰皿を取り出すと、まだ長さの残るナットシャーマンを押しつけた。そして、蓋を閉じた携帯灰皿を人差し指と中指に挟むように持ち、フェンスから数歩下がって俺の隣へ来ると、全身で勢いをつけ前に踏み込み、その携帯灰皿を打ち出すように投げた。
ブンッ!という、短く空気を切る音。携帯灰皿のフレームは刹那、オレンジ色の流れ星のように夕日を照り返して、眼下の森へ消えていった。
「たーまやー・・・ッ」
生徒会長は、携帯灰皿を投げ終わった体勢のまま、満足げにそうつぶやく。この人には、灰皿が流れ星じゃなくて花火に見えたらしかった。ああ、感性が違うなあ。
「・・・不法投棄」
「ばっか、証拠隠滅だってこれ」
まあどっちも正しいけど、両方良くないですよね、という至極まっとうな突っ込みは、しかしこの生徒会長にはなんの影響も及ぼさないともう散々学んでいたから、俺は軽く首を横に振るだけで、本筋に話を引き戻すことにした。
「俺は覚えてます。知ってると思いますけど、俺数学超苦手で。というか、算数から駄目だったんですよ」
「知ってるよ。お前、いっつも算数以外の実力テストはTOP20位以内にいるもんな」
生徒会長は、またフェンスに両肘を預けるように立つと、俺に背を向けて夕日を見ながらそう相づちをうった。
「そうそう。で、俺小学一年生のときかな、親と一緒に九九の勉強をはじめたんですけど。そのとき何度見ても読んでも、どうしても暗記できなくって。一週間かかって、やっと1の段と5の段が言えるようになったくらい。で、業を煮やした母親が、1日一段分覚えられるまでは、お風呂を出ちゃ駄目って言い出して」
「ゆでだこになりそう」
「正直ぶっ倒れるかと思いました。俺の親熱い風呂が好きで、いつも設定42度だったし」
「うわぁ・・・」
「その代わり、風呂を出たあとの牛乳のおいしさはやばかったですけどね。牛乳マジ神。天国。なにあれうまい」
「自分牛乳嫌いなんだよなー」
「会長、どんだけ偏食なんすか。この前学食でピーマンも椎茸も納豆もチーズも駄目だって言ってたでしょ」
「ふっ・・・。なんか、人様に嫌われてそうなやつは基本食べられないと思ってくれて構わないよ!?」
生徒会長は、フェンスの手すりをつかんで振り返り、キリッとした表情でそう言いきる。
あー、いやでもそこ、全然えばるところじゃないですよ。むしろウィークポイントですよ。ちょっとはこう、恥ずかしがったりとか、悔しがったりとか、そういう自然な反応は無いんですかあなたには。
・・・と、言えるうちに、軽口のひとつも言ってやれば良かった。
お守り役の俺としては、普段から、この人にはもう少しだけまともになって欲しいと願い続けているから。
でも、今ばかりは突っ込むタイミングを失って、俺は黙った。
生徒会長が表情をふっと緩めて俺に顔を向けると、少し頬を持ち上げるようにして、優しい顔を作っていたから。
「・・・自分はさ、むしろ割り算で躓いた方なんだよね。九九を覚えるのは何気、結構楽しくてさ」
生徒会長は、古びたフェンスに右肩を当て、体の体重のすべてをそこへ預けるように寄りかかる。フェンスの手すりの上にまっすぐ右手を伸ばし、その上に頭を置いて、ふぅ、と小さくため息をついて目を閉じた。
「九九ってさー、RPGのレベル上げっぽくねえ?」
「あー・・・?LV1が1×1みたいな、そんな感じですか?」
「そうそう、初心者は一の段からはじめて、徐々に経験値上げていくわけ。初めての中ボスが二の段、癒し系が五の段で、一癖ある七の段。最後に9×9がラスボス」
「・・・に、ご、ななの印象が俺にはよく分かりませんけど。9×9がラスボスってのは、まあそうかもしれませんね」
「だろ?だってのにさー、9×9が81って、少なすぎじゃね?ラスボスよ?普通に100越えてていいレベルだと思うのになあ」
「そりゃ、レベルとかノリとかで数字の大きさが変わったら、数学の世界大混乱でしょうからねえ。」
「・・・懐かしいなあ」
「え?」
「いや、なんか昔そんな話したなと思って。・・・それさ、昔ひとつだった言葉がバラバラになっても、人間生きてるし、フェルマーの最終定理だって解けたんだし。別に数字がバラバラになったって、数百年したらまた、人間が新しい法則を勝手に見つけて元通りになってる気がするなあって、そんな話を」
「・・・お父さんとですか」
「そうそう」
生徒会長は、少し照れるように、にひっと笑って、フェンスから体を離すと、両手を頭の上で組んで、うーっと背伸びをした。
太陽は間もなく、眼下の森へ沈み込もうとしているところ。森の向こうの電線にくくられたスピーカーから流れる夕焼け小焼けのメロディは、5時を知らせる合図。
「さぁて、もう流石に、親父ここにゃいないだろ。戻ろうぜ」
生徒会長は、5時のメロディを鼻歌で反芻しながら、俺の横を通って、屋上から下り階段へ続くドアノブへ手を伸ばす。
その薄いなで肩を、広くない背中を、俺は、穏やかでない心で、視線で、追っていた。
「・・・好きな人なら、こんな風に逃げ回らなくてもいいでしょうに」
生徒会長は、既に扉の向こう、下り階段の一歩目に脚をかけている。閉じかかる扉を左手で押さえ、頭だけを扉からひょこっと出すと苦笑いをした。
「ばっか、好悪と得意不得意はまた別の問題なんだよ」
生徒会長は俺の目の前、雨の跡が残る屋上のコンクリを踏みしめて、独りごとのようにつぶやいた。
白色の塗装が剥がれて錆びつき、今日明日にぽっきり折れても別段驚かない程脆く見えるフェンスに 両肘をつき寄りかかっている。視線は遠く、カラスが鳴く夕日のほうへ。
右手にはナットシャーマンナチュラル。それを口元へ運び、ゆっくりと胸に落としたあとで、生徒会長は俺のほうへ振り向いて言った。お前、どう思う?
「喋りながら煙はくのやめてくださいよ。そんな重いの、教師とすれ違ったら一発でバレるじゃないっすか」
俺は、指先だけを軽く振って顔を顰めた。俺はいつでもどこでも品行方正な高校生なんですよ?外面だけのあんたとは違うんだ。
生徒会長は、フェンスに紺色のセーターの背を預け、にやっと笑って言った。
「気にすんな、生徒会室戻ったらファブリーズ貸してやんよ。無臭タイプと草原の香りから選べます。で、どう思う?」
「そりゃ、9×9が81になるのは、九九の式でそうなってるからでしょう。9を9回足したら81になります、って。それ以外にどういう理由があるってんですか?」
俺は、抗議の意を込めて、わざとらしくため息をつきながらそう言った。
この人の考えていることは、いつも大抵よく分からないが、今回もいつも通りよく分からない。
「お前さー、小学校で、はじめて九九を覚え始めたときのこと、覚えてるか?」
生徒会長は右の胸ポケット、本来は生徒手帳が入っているべき場所から携帯灰皿を取り出すと、まだ長さの残るナットシャーマンを押しつけた。そして、蓋を閉じた携帯灰皿を人差し指と中指に挟むように持ち、フェンスから数歩下がって俺の隣へ来ると、全身で勢いをつけ前に踏み込み、その携帯灰皿を打ち出すように投げた。
ブンッ!という、短く空気を切る音。携帯灰皿のフレームは刹那、オレンジ色の流れ星のように夕日を照り返して、眼下の森へ消えていった。
「たーまやー・・・ッ」
生徒会長は、携帯灰皿を投げ終わった体勢のまま、満足げにそうつぶやく。この人には、灰皿が流れ星じゃなくて花火に見えたらしかった。ああ、感性が違うなあ。
「・・・不法投棄」
「ばっか、証拠隠滅だってこれ」
まあどっちも正しいけど、両方良くないですよね、という至極まっとうな突っ込みは、しかしこの生徒会長にはなんの影響も及ぼさないともう散々学んでいたから、俺は軽く首を横に振るだけで、本筋に話を引き戻すことにした。
「俺は覚えてます。知ってると思いますけど、俺数学超苦手で。というか、算数から駄目だったんですよ」
「知ってるよ。お前、いっつも算数以外の実力テストはTOP20位以内にいるもんな」
生徒会長は、またフェンスに両肘を預けるように立つと、俺に背を向けて夕日を見ながらそう相づちをうった。
「そうそう。で、俺小学一年生のときかな、親と一緒に九九の勉強をはじめたんですけど。そのとき何度見ても読んでも、どうしても暗記できなくって。一週間かかって、やっと1の段と5の段が言えるようになったくらい。で、業を煮やした母親が、1日一段分覚えられるまでは、お風呂を出ちゃ駄目って言い出して」
「ゆでだこになりそう」
「正直ぶっ倒れるかと思いました。俺の親熱い風呂が好きで、いつも設定42度だったし」
「うわぁ・・・」
「その代わり、風呂を出たあとの牛乳のおいしさはやばかったですけどね。牛乳マジ神。天国。なにあれうまい」
「自分牛乳嫌いなんだよなー」
「会長、どんだけ偏食なんすか。この前学食でピーマンも椎茸も納豆もチーズも駄目だって言ってたでしょ」
「ふっ・・・。なんか、人様に嫌われてそうなやつは基本食べられないと思ってくれて構わないよ!?」
生徒会長は、フェンスの手すりをつかんで振り返り、キリッとした表情でそう言いきる。
あー、いやでもそこ、全然えばるところじゃないですよ。むしろウィークポイントですよ。ちょっとはこう、恥ずかしがったりとか、悔しがったりとか、そういう自然な反応は無いんですかあなたには。
・・・と、言えるうちに、軽口のひとつも言ってやれば良かった。
お守り役の俺としては、普段から、この人にはもう少しだけまともになって欲しいと願い続けているから。
でも、今ばかりは突っ込むタイミングを失って、俺は黙った。
生徒会長が表情をふっと緩めて俺に顔を向けると、少し頬を持ち上げるようにして、優しい顔を作っていたから。
「・・・自分はさ、むしろ割り算で躓いた方なんだよね。九九を覚えるのは何気、結構楽しくてさ」
生徒会長は、古びたフェンスに右肩を当て、体の体重のすべてをそこへ預けるように寄りかかる。フェンスの手すりの上にまっすぐ右手を伸ばし、その上に頭を置いて、ふぅ、と小さくため息をついて目を閉じた。
「九九ってさー、RPGのレベル上げっぽくねえ?」
「あー・・・?LV1が1×1みたいな、そんな感じですか?」
「そうそう、初心者は一の段からはじめて、徐々に経験値上げていくわけ。初めての中ボスが二の段、癒し系が五の段で、一癖ある七の段。最後に9×9がラスボス」
「・・・に、ご、ななの印象が俺にはよく分かりませんけど。9×9がラスボスってのは、まあそうかもしれませんね」
「だろ?だってのにさー、9×9が81って、少なすぎじゃね?ラスボスよ?普通に100越えてていいレベルだと思うのになあ」
「そりゃ、レベルとかノリとかで数字の大きさが変わったら、数学の世界大混乱でしょうからねえ。」
「・・・懐かしいなあ」
「え?」
「いや、なんか昔そんな話したなと思って。・・・それさ、昔ひとつだった言葉がバラバラになっても、人間生きてるし、フェルマーの最終定理だって解けたんだし。別に数字がバラバラになったって、数百年したらまた、人間が新しい法則を勝手に見つけて元通りになってる気がするなあって、そんな話を」
「・・・お父さんとですか」
「そうそう」
生徒会長は、少し照れるように、にひっと笑って、フェンスから体を離すと、両手を頭の上で組んで、うーっと背伸びをした。
太陽は間もなく、眼下の森へ沈み込もうとしているところ。森の向こうの電線にくくられたスピーカーから流れる夕焼け小焼けのメロディは、5時を知らせる合図。
「さぁて、もう流石に、親父ここにゃいないだろ。戻ろうぜ」
生徒会長は、5時のメロディを鼻歌で反芻しながら、俺の横を通って、屋上から下り階段へ続くドアノブへ手を伸ばす。
その薄いなで肩を、広くない背中を、俺は、穏やかでない心で、視線で、追っていた。
「・・・好きな人なら、こんな風に逃げ回らなくてもいいでしょうに」
生徒会長は、既に扉の向こう、下り階段の一歩目に脚をかけている。閉じかかる扉を左手で押さえ、頭だけを扉からひょこっと出すと苦笑いをした。
「ばっか、好悪と得意不得意はまた別の問題なんだよ」
作品名:あわないアンタが嫌いだ。 作家名:速水湯子