君の隣で
しかし、さくらが現れることはなかった。僕は、さくらと出会う前の、誰とも関わらず、ただ時が過ぎることのみを願う状態に戻った。いや、正確には戻っていない。さくらを失った喪失感がとても大きく、胸に残っているからだ。そして、また街の人とも話をすることはなくなった。しかし、以前とは異なり街の人は、僕のことを心配し、話しかけ続けてくれる。
そんな生活が一年続き、また、春が来た。さくらと出会い、別れた春に。
僕は、今頃だが、もしかしたら街の人なら何か知っているのではないかと思い、多くの人に話を聞いた。そして、やっと僕は全てを知った――
さくらは生まれつき心臓が弱く、二十歳まで生きるのは難しいと言われていた。もし、生き延びたいのなら心臓移植をするしかない、とも。しかし、心臓移植をしようにも、ドナーが見つかる確率は極めて低く、また、見つかっても日本で移植手術をすることもとても難しいことだった。
さくらという名前は、彼女の両親が儚いかもしれない彼女の人生を、桜の様に美しく、綺麗に力強く生きてほしいという願いを込めて付けたそうだ。そして、さくらは両親の願い通り、他人に優しく明るい少女に成長した。
しかし、やはり普通の女の子がしている様に出来ないもどかしさや悲しさからか、学校には通うものも、帰って来てはすぐに部屋に籠ってしまう、という毎日が続いた時期があった。その時の彼女は自分の体が第一で、他人など、どうでもよくなっていた。
そんな頃、僕がこの街にやってきた。自分よりも体が丈夫なのに、不幸そうな顔つきをしている僕が憎く、羨ましく、そして心配で、気になりだしたという。気付いた時には
「ねぇ、無愛想な駅員さん」
と、思わず話しかけてしまっていた。それから、彼女は以前のような明るさを取り戻したという。そして去年、アメリカで手術を受けるためにこの街を離れた。さくらは、この街を離れる際に街の人々に、「駅員さん、もしかしたら前のように無愛想になっちゃうかもしれない。それでも、離れずに、ずっと気にかけてあげて」と頼んで行ったそうだ。
僕は、「そうだったのか、はっ、なんだ、そうか」と呟いた。笑える話だ。初めて出会ったときから、僕はさくらに心配をかけていたらしい。ふと、思った。「なんで、病気のこと、手術のこと、僕に言わなかったんだ? 話してくれれば、僕はさくらのことをずっと待っていたのに」と。
何故さくらが僕に話さなかったのか、彼らはその理由も話してくれた。
彼女が受ける手術は、生存率が極めて低く、生き延びられる保証がなかった。そんな、手術を受けるのに僕に待ってて、と言えるだろうか。答えは、言えない、だ。
僕のことだから、ずっと待ってると思ったんだろう。
そしてもうひとつ。上手くいったら一年後、必ず帰ってくる、と約束したそうだ。しかし、約束の一年は過ぎてしまった。
僕は、礼もそこそこに、ふらふらと歩き始めた。どのくらい経ったのだろうか。気付くとあの桜が目の前にあった。桜はあの時のように華やかに咲いてはいなかった。風に揺らされ、散っていく姿を見ていたら、涙が止まらなかった。“さくら”は、本当に儚い人生なのだ、と実感した。後悔しか、思い浮かばない。最後に見たさくらの顔が、泣き顔だなんて。
「はぁ……、笑顔が、見たかったなぁ」
今さらだと思った。しかし、今だからこそ、そう思う。僕はひたすら泣いた。泣くことしか出来なかった。
どのくらい泣いただろうか。涙が枯れ果てた頃、周りはすっかり陽が落ちていた。僕は赤くはれ上がった目で桜を見上げ、「せめて、この桜の笑顔を見にこよう」と、これから毎年ここに来ることを心の中で誓った。
――全てを知った日から、二年。また、春が来た。
さくらと出会い、別れ、そして彼女の優しさを深く感じた春、が。
僕は、あの日誓ったように、毎年春には、毎日のように桜の元へ来ている。
そして、心の中で呟いた。「この街は、素敵なところだ。街の人も親切で、自然も美しい。それになにより、君に出会えた。君がいなくなってから抜け殻のようになった僕は、もういない。安心して。僕は元気でやっているから。君が、頼んでいておいてくれたおかげで街の人は今でも僕に優しい。それに、この桜のように君も、ここでこの街を、僕を見守っていてくれているんだろう? だから、今はここでの生活を存分に楽しんでいるよ。でも、やっぱり……」
僕は、桜を見上げそして、空を見た。
「やっぱり。君に会いたいよなぁ」
僕は、こう漏らしていた。
ここでの生活を、僕はつまらないと思っていた。楽しさなんて感じない、白黒の世界に僕はいた。そんな、僕を色とりどりな世界へ連れ出してくれた君。やっぱり、君の笑顔が見たいんだ。
今でも、彼女の優しさを思うと自然に、微笑んでしまう。僕は、温かな気持ちで再び、桜を見た。僕と桜の間を風が抜ける。
「陽斗(はると)さん」
空耳だと思った。
もう聞くことはないと思っていた声が聞こえたから。
「無愛想な駅員さん」
空耳じゃなかった。
僕は嘘だと思いながら振り返った。
すると、そこには満開の“さくら”がいた。