君の隣で
今年もまた春が来た。君に……会いたいな。
☆ ☆ ☆
僕が暮らしている街はお世辞にも賑やかとはいえない。しかし、後ろを見れば山の緑が、前を見れば海の青が見える自然がとても美しい街だ。そして、今僕は、ローカル線が一日に数えるほどしか通らないというこの街の駅で、駅員をしている。初めは気乗りしなかった。だって、僕は生まれも育ちも大都会。この街への異動が言い渡された時、僕は絶望した。でも、どうすることもできないだろう?
だから、僕は考えることを止めた。けど、完全に考えを失くすことはできなかったんだ。そんな状態のまま、この街に来たから、この街のことを知ろうと思わなかったし、街の人と関わろうともしなかった。僕はただ、早く時が過ぎることだけを願いながら、また異動が言い渡されることを待っていた。
そんな時、彼女は現れた。
「無愛想な駅員さん」
振り向くと、そこには優しく微笑んでいる彼女がいた。
僕は、この街に来て初めて「すみません」以外の言葉で呼びかけられた。だから一瞬にして、驚きと、そして怪訝そうな顔が混ざったような……とにかく、色々な表情をしたのだろう。そんな僕の百面相を見て、また彼女が笑った。
これが、僕と彼女の出会いだった。
彼女は、この駅から二つ隣の街にある高校に通っている学生だった。毎朝見かけてはいるけれど、それほど気には留めていなかった。
僕を呼びとめたその日から、彼女は毎日学校帰りに僕に話しかけるようになった。必ず
「こんにちは、無愛想な駅員さん」
と笑顔で言いながら……。
交わす言葉は、彼女が彼女の学校生活のことや、この街のことを一方的に話す言葉だけで、僕から話題を振ることはなかった。
そんなある日、彼女は僕に尋ねた。
「ねぇ、駅員さん。あなたの名前は何て言うの?」
そういえば、教えてない。それに、聞かれてもいなかった。僕は彼女のことを知りたいとも思わなかったし、彼女に“無愛想な駅員さん”と呼ばれるのが、それほど嫌ではなかったから。
「へぇ、素敵な名前ね」
そう言って、彼女はまた笑顔になる。その笑顔を見てぼくは無性に、彼女を知りたいという衝動に駆られた。
次の瞬間、僕は踵(きびす)を返していた彼女の腕を掴み、名前を尋ねていた。
「どうしたの? 駅員さんから、話しかけるなんて初めてね。私の名前、知りたいの?」
僕は静かに頷いた。
「そっかぁ……、ふふっ、なんか嬉しいな。私の名前は、」
『さくら』
僕はぴったりだ、と思った。そして、綺麗な名前だ、と呟いていた。
「ほんと? ありがとう。私も、この名前気に入ってるの。だって、儚い命をめいっぱい美しく、綺麗に生きている、私の大好きな花と同じ名前なんだもの」
そう言って彼女は、出会ってから一番だ、と思えるほどの笑顔を見せた。
その日から、僕らの距離は縮まった。休みの日には、さくらに街を案内してもらう、それが当たり前に。さくらは持ち前の明るさと、人なつっこい性格のためか、街の人々と、とても仲が良かった。おかげで、さくらと買い物に行くと、僕までサービスしてもらえた。
そんなことをして過ごしているうちに、一年の時が過ぎ、僕は、すっかりこの街に馴染んでしまった。
そして、今日この日も、さくらと共に出かけていた。
「ねぇ、無愛想な駅員さん」
さくらは、名前を教えてからも、僕を名前で呼ぶことはなかった。僕は、その呼び方は止めてくれないか、と言った。
「なんで? いいじゃない。私はこの呼び方が好きなの」
そう言って、屈託のない笑顔を向けた。僕は、さくらの笑顔に逆らえない。仕方がないから、呼び名のことは諦め、先を促した。
「そうそう、今日は駅員さんを連れていきたいところがあるの」」」」」」
さくらは、僕の返事を聞かずに歩きだした。僕は、黙って付いていく。どんどん歩いていくと、高い木々が生い茂った場所に着いた。ここか? と思ったが、さくらは止まることなく、その林の中へと入って行った。僕らは、どうやら丘に向かっているらしい。徐々に上り坂は急になっていった。さすがに、疲れた。さくらがやっと立ち止まったので、膝に手をつき下を向いて息を整えた。すると、
「ここよ」
と、さくらが言った。
顔をあげると、ザアっと風が吹きこんだ。
なんて綺麗な場所なんだ、と思った。
少し開けたその丘には、とても大きな桜の木が一本立っており、とても美しく咲き誇っていた。が、周りの自然に溶け込み、まるでそこに存在しないとでも言うかの様に、ひっそりと立っている。そのせいか、僕にはどこか寂しそうに見えた。その先の眼下には、広々とした海と、僕らの住んでいる街が広がっている。まるで、別世界に来たみたいだ。
「ここね、私のお気に入りの場所なの。それに、誰もここのことを知らないのよ」
ふと、さくらは、桜吹雪の中大きく手を広げ言った。そして、少し寂しげな顔で「こんなに綺麗なのにね」と呟いた。
僕は、言葉を失った。
二つの“さくら”が重なった様に見えたから……。
そして、その風景はとても綺麗だったが、僕をなんだか無性に悲しく、不安にさせた。
僕は、優しく微笑みながら桜を見上げる彼女に、どうして僕をここに連れてきたのか尋ねた。すると、ほんの一瞬、今まで見せたことのない、悲しげな表情になったが、またすぐにいつもの笑顔に戻った。
「やっぱり。……言わなきゃ、ダメよね。本当はこんなこと言いたくないんだけど……」
笑顔のままさくらは言ったが、声には、力がなくいつもの明るさが消えている。僕はまた、何とも言えない不安を抱いた。
「あのね、私、今日で駅員さんとお別れしなくちゃいけないの」
僕は、自分の耳を疑った。夢だと思いたかった。だけど、彼女の涙を堪えながらも必死に笑顔でいようとする顔を見て、現実なのか、と実感した。
受け入れようとした。けど、僕には出来ない!
僕は彼女に捲(まく)し立てた。お別れとはどういうことなのか。何故、別れなくちゃいけないのか、と。僕は冷静でいることができなかった。それほど、この一年で僕の中の彼女の存在は大きくなっていたのだ。気付くと、彼女の肩を掴み、ゆすっていた。
「やめて!」
さくらの叫び声で、僕はハッとし、彼女の肩から手を離した。さくらの顔からは笑顔が消え、今にも大粒の雫がこぼれ落ちそうになっていた。
「ごめんなさい。何も、何も言えないの。お願い。分かって……」
僕に残された最後の言葉は、風に消されてしまい、聞き取ることができなかった。……沈黙。僕はただ、「さよなら」じゃないことを願った。しかし、二人の間の沈黙と僕の願いをかき消すように、彼女は走り去ってしまった。
一人残された僕は、桜を見上げ、彼女の笑顔を思い出していた。
それから、数日、数週間と僕はあの桜の元でのやり取りが夢であると信じ、毎日さくらを待った。以前のように、「無愛想な駅員さん」と笑顔で呼んでくれるのでは、と期待しながら。
☆ ☆ ☆
僕が暮らしている街はお世辞にも賑やかとはいえない。しかし、後ろを見れば山の緑が、前を見れば海の青が見える自然がとても美しい街だ。そして、今僕は、ローカル線が一日に数えるほどしか通らないというこの街の駅で、駅員をしている。初めは気乗りしなかった。だって、僕は生まれも育ちも大都会。この街への異動が言い渡された時、僕は絶望した。でも、どうすることもできないだろう?
だから、僕は考えることを止めた。けど、完全に考えを失くすことはできなかったんだ。そんな状態のまま、この街に来たから、この街のことを知ろうと思わなかったし、街の人と関わろうともしなかった。僕はただ、早く時が過ぎることだけを願いながら、また異動が言い渡されることを待っていた。
そんな時、彼女は現れた。
「無愛想な駅員さん」
振り向くと、そこには優しく微笑んでいる彼女がいた。
僕は、この街に来て初めて「すみません」以外の言葉で呼びかけられた。だから一瞬にして、驚きと、そして怪訝そうな顔が混ざったような……とにかく、色々な表情をしたのだろう。そんな僕の百面相を見て、また彼女が笑った。
これが、僕と彼女の出会いだった。
彼女は、この駅から二つ隣の街にある高校に通っている学生だった。毎朝見かけてはいるけれど、それほど気には留めていなかった。
僕を呼びとめたその日から、彼女は毎日学校帰りに僕に話しかけるようになった。必ず
「こんにちは、無愛想な駅員さん」
と笑顔で言いながら……。
交わす言葉は、彼女が彼女の学校生活のことや、この街のことを一方的に話す言葉だけで、僕から話題を振ることはなかった。
そんなある日、彼女は僕に尋ねた。
「ねぇ、駅員さん。あなたの名前は何て言うの?」
そういえば、教えてない。それに、聞かれてもいなかった。僕は彼女のことを知りたいとも思わなかったし、彼女に“無愛想な駅員さん”と呼ばれるのが、それほど嫌ではなかったから。
「へぇ、素敵な名前ね」
そう言って、彼女はまた笑顔になる。その笑顔を見てぼくは無性に、彼女を知りたいという衝動に駆られた。
次の瞬間、僕は踵(きびす)を返していた彼女の腕を掴み、名前を尋ねていた。
「どうしたの? 駅員さんから、話しかけるなんて初めてね。私の名前、知りたいの?」
僕は静かに頷いた。
「そっかぁ……、ふふっ、なんか嬉しいな。私の名前は、」
『さくら』
僕はぴったりだ、と思った。そして、綺麗な名前だ、と呟いていた。
「ほんと? ありがとう。私も、この名前気に入ってるの。だって、儚い命をめいっぱい美しく、綺麗に生きている、私の大好きな花と同じ名前なんだもの」
そう言って彼女は、出会ってから一番だ、と思えるほどの笑顔を見せた。
その日から、僕らの距離は縮まった。休みの日には、さくらに街を案内してもらう、それが当たり前に。さくらは持ち前の明るさと、人なつっこい性格のためか、街の人々と、とても仲が良かった。おかげで、さくらと買い物に行くと、僕までサービスしてもらえた。
そんなことをして過ごしているうちに、一年の時が過ぎ、僕は、すっかりこの街に馴染んでしまった。
そして、今日この日も、さくらと共に出かけていた。
「ねぇ、無愛想な駅員さん」
さくらは、名前を教えてからも、僕を名前で呼ぶことはなかった。僕は、その呼び方は止めてくれないか、と言った。
「なんで? いいじゃない。私はこの呼び方が好きなの」
そう言って、屈託のない笑顔を向けた。僕は、さくらの笑顔に逆らえない。仕方がないから、呼び名のことは諦め、先を促した。
「そうそう、今日は駅員さんを連れていきたいところがあるの」」」」」」
さくらは、僕の返事を聞かずに歩きだした。僕は、黙って付いていく。どんどん歩いていくと、高い木々が生い茂った場所に着いた。ここか? と思ったが、さくらは止まることなく、その林の中へと入って行った。僕らは、どうやら丘に向かっているらしい。徐々に上り坂は急になっていった。さすがに、疲れた。さくらがやっと立ち止まったので、膝に手をつき下を向いて息を整えた。すると、
「ここよ」
と、さくらが言った。
顔をあげると、ザアっと風が吹きこんだ。
なんて綺麗な場所なんだ、と思った。
少し開けたその丘には、とても大きな桜の木が一本立っており、とても美しく咲き誇っていた。が、周りの自然に溶け込み、まるでそこに存在しないとでも言うかの様に、ひっそりと立っている。そのせいか、僕にはどこか寂しそうに見えた。その先の眼下には、広々とした海と、僕らの住んでいる街が広がっている。まるで、別世界に来たみたいだ。
「ここね、私のお気に入りの場所なの。それに、誰もここのことを知らないのよ」
ふと、さくらは、桜吹雪の中大きく手を広げ言った。そして、少し寂しげな顔で「こんなに綺麗なのにね」と呟いた。
僕は、言葉を失った。
二つの“さくら”が重なった様に見えたから……。
そして、その風景はとても綺麗だったが、僕をなんだか無性に悲しく、不安にさせた。
僕は、優しく微笑みながら桜を見上げる彼女に、どうして僕をここに連れてきたのか尋ねた。すると、ほんの一瞬、今まで見せたことのない、悲しげな表情になったが、またすぐにいつもの笑顔に戻った。
「やっぱり。……言わなきゃ、ダメよね。本当はこんなこと言いたくないんだけど……」
笑顔のままさくらは言ったが、声には、力がなくいつもの明るさが消えている。僕はまた、何とも言えない不安を抱いた。
「あのね、私、今日で駅員さんとお別れしなくちゃいけないの」
僕は、自分の耳を疑った。夢だと思いたかった。だけど、彼女の涙を堪えながらも必死に笑顔でいようとする顔を見て、現実なのか、と実感した。
受け入れようとした。けど、僕には出来ない!
僕は彼女に捲(まく)し立てた。お別れとはどういうことなのか。何故、別れなくちゃいけないのか、と。僕は冷静でいることができなかった。それほど、この一年で僕の中の彼女の存在は大きくなっていたのだ。気付くと、彼女の肩を掴み、ゆすっていた。
「やめて!」
さくらの叫び声で、僕はハッとし、彼女の肩から手を離した。さくらの顔からは笑顔が消え、今にも大粒の雫がこぼれ落ちそうになっていた。
「ごめんなさい。何も、何も言えないの。お願い。分かって……」
僕に残された最後の言葉は、風に消されてしまい、聞き取ることができなかった。……沈黙。僕はただ、「さよなら」じゃないことを願った。しかし、二人の間の沈黙と僕の願いをかき消すように、彼女は走り去ってしまった。
一人残された僕は、桜を見上げ、彼女の笑顔を思い出していた。
それから、数日、数週間と僕はあの桜の元でのやり取りが夢であると信じ、毎日さくらを待った。以前のように、「無愛想な駅員さん」と笑顔で呼んでくれるのでは、と期待しながら。