小さな鍵と記憶の言葉
息を吸う間もなく、気がつけば水の中だった。
落ちた、と思った。秋も真っ只中の噴水に落ちてしまった。思った通り水は冷たい。顔から腕から、全身がひやりとした感覚に包まれていく。
けれど妙だった。噴水のはずなのに、どうしてここは足がつかないくらい深いのだろう?
私は目を開ける。そして、息を詰まらせた。
まるでそこは、深い海の底。
輝く気泡に飾られた波の下。
眩く光る青は、幼い頃に行った海よりも綺麗だった。
ゴーグルもしていないのに、しっかりと見える青色の中。まるで熱帯魚みたいなきらきらした魚が上へ下へと泳いでいる。羽の生えた魚はトビウオだろうか。パステルピンクの魚がいるなんて今まで知らなかった。
一瞬自分の置かれている状況も忘れて、私はその水中の美しさに目を見張っていた。
ふう、と溜息を吐きかけて、それが大事な酸素なのだと思い出す。途端に息苦しさが戻ってきた。
水面はどこ?とにかく、あがらなくちゃ。だけど一体上はどっちだろう。足の下からも頭の上からも、光が注いでいる。
そのまま私は、足のほうの光へと引き込まれた。
違う、さっきから私を掴んでいる誰か。水の中だから、顔は見えない。その腕に手繰り寄せられるように、光のほうへ。
ざばり、私は光の中へ落ちた。いや、光の中に飛び出した。
空気の吸える場所、水の外へ。転がるように芝生の上に放り出される。そして途端に、その誰かに抱きとめられた。
水に濡れた体、私を包む温かい腕。
抱きしめられたまま、頭の上で声がした。
「――間に合った」
視界が定まらないまま、ぼんやりとその声を見上げる。私と同じように、ずぶ濡れの体に髪。見知らぬ青年が笑った。
見覚えのない顔、聞いたことのない声。けれどどこか懐かしい感じがして。
「やっと掴まえた、アリス」
「……な」
とにかく彼から離れようともがいた。けれど彼は私を放してくれない。それに、なんだか足元が揺れて立っていられない。
太陽が眩しかった。陽射しが温かい。その代わり、空だけは灰色だった。
私は掠れた声で呟いた。
「なに、これ。どうして私、だって、さっき、噴水に……っ」
振り返る。そこにあるのは、ラピスラズリを沈めたような青色の湖。
公園の人工的な噴水とは違う、本物の青。
急に記憶が遠くなる。その、安心したような微笑みが遠くなる。苦しくて頭が重い。酸素を吸いすぎたのかもしれない。とにかく、ぐらぐらして駄目そうだった。
息が出来ない。苦しい、苦しい。
ああ、私の苦しみだ、と思った。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと