小さな鍵と記憶の言葉
「クリスティ・フラン。クリスでいいよ」
クリス。口の中で復唱してからその悪戯っぽい瞳を見上げる。身長はフィンよりはちょっとだけ小柄だ。私より十センチばかり上の目線。年齢は分からない。一つ二つ年上にも、同い年にも、年下にも見える。大人びた子供にも、少年の気配の残る成人男性にも見えた。
「ずっと会いたいと思ってたの。それと同時に、会いたくなかった。聞きたいことがあったから」
瞳は揺れることなく私を見る。それから手にしていた本を、すぐ傍の棚に戻した。私は彼の背後、窓際に残された真白い本に目をやった。
クリスは新しい本を手に再び窓へと戻る。けれど、それを開こうとはしない。
「あなた……違うのね」
何も言ってこないクリスに変わって呟いた。視線が帰ってくるものの、言葉が続かない。だからまた私が付け加える。
「他の人達とは『違う』。なんというか……雰囲気みたいなものが」
ずっと感じていたことだった。
彼――クリスと会うのは数えるほど、言葉を交わしたのは更に少なかったけれど、その言葉も気配も、私に返す視線でさえ他の誰とも異なっていた。
一言で言うなら、この世界に関心がない。アリスは勿論、白兎やトカゲや、あの波打った大地も斑色の空も、きっとクリスにとってはつまらないものでしかないのだろう。
「そうかもね。僕と彼らは正反対だから」
彼は隠すことも無くさらりと言い返してくる。とってつけたようにふわりと笑う。ああ、微笑みさえも兎達と間逆だ。
興味を持つことも、興味を失うこともない。だからきっと彼はアリスのことを自由に口にした。ただの噂話のひとつとして、もしかしたら、彼の見ていた事実として。
懸命に前に進もうとする薔薇や役職就きを尻目に、彼は後ろも前も、未来だって自由に眺めている。だからまるで別のもののように感じられた。
この思惑さえ見透かされていると思うと、息を呑むことさえ躊躇われる。
「僕は《チェシャ猫》。意味は、図書館の亡霊。この本の森に住み着いて、気紛れに世界を見渡す存在だ」
「気紛れに?」
口元だけの微笑。フィンは真っ白な本を引き寄せて、その縁をするりとなぞった。
「そう。意味もなく囃し立てたり、意味もなく掻き混ぜたり。それに飽きたら眠るだけ」
「気楽でいいわね」
「そうかな」
溜め息に返されるのは、すっと細められた、猫のような面白がりの視線。
「今も何かを乱しているの?」
「さあ、どうだと思う?」
ニヤリと笑う。本物のチェシャ猫より、ずっと軽薄で人間的な笑みで。
「……少なくとも、私の心の中を掻き混ぜているのは確かね」
目を逸らすと、くく、と喉の奥で嗤う声が聞こえた。
作品名:小さな鍵と記憶の言葉 作家名:篠宮あさと