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小さな鍵と記憶の言葉

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「……ラ。リラ」
 すぐ近くで声がして、ふっと目を開ける。
 誰が呼んだのだろう、そう思う必要もないくらいの視線をフィンが私に向けている。ちょっと呆れたようにも見える、至極真面目な表情だった。私に声をかけようとしてか、屈んで顔を覗き込んでいる。
「あれ……私、寝てた……?」
 見渡した部屋は白兎の執務室。テーブルの上の紅茶がすっかり冷めているのを見ると、どうも幾らか転寝をしてしまっていたらしい。
 何か夢を見ていた気がする。どんな夢だったろう。クラリネットを吹いた気がするから、なんとなく、向こうの生活の夢だったような。

 夢。少しだけ笑いそうになる。
 こんな夢か現実か分からない場所で、向こうを『夢』と言ってしまえる自分に。
 苦くなった紅茶の味も、私を見つめる紫色の瞳も。
 ここにいる限りは、私にとってはこちらが現実なのだ。
 現実が夢になり、夢が現実に戻る日。目覚められないとは思っていない。けれど、それがいつになるのかは私には分からない。
 全ては、目の前で跳ねる兎次第。

「ジョシュアは?」
 もう一度執務室を見渡してから、そういえば帽子屋とミニお茶会をしていたところだったのを思い出した。と言っても、やはり帽子屋が一方的に始めたティータイムだったのだけれど。テーブルの上にはタツキの自信作だというさくらんぼのタルトがきちんと一人分残っている。
「先に帰りました。貴女によろしくと」
 この部屋に顔を出すようになって三日経つけれど、その間ジョシュアはいつもお茶を楽しんでいた。あそこまで行くとミーティングに来ているのか紅茶を飲みに来ているのか分からない。ああ、でも、元々会議のことを《お茶会》と呼ぶのだから問題ないのかな。
 私が欠伸をかみ殺すのを見て、白兎は少しだけ表情を和らげた、ように見えた。
 もしかして苦笑しただけなのかもしれないけれど。
「私は少し席を外します。このままお休みになっていても構いませんが、どうなさいますか」
「……部屋に戻る」
 私は少し考えてからそう答えた。
「お送りしましょうか」
「大丈夫よ、間に合ってる」
 勢いをつけて立ち上がる。ソファのクッションを元の場所へ戻して、紅茶のカップを片付けよう――と思ったら、既にテーブルの上には無かった。本当に、ここのメイドさんは仕事が早いなぁ。
 と、振り向いて気が付くことがあった。席を外すと言っていたフィンが、まだ部屋の中にいる。それだけではなくて、何故か入り口の前に佇んでいる。
 何か忘れ物かな?思いながら前を横切って、彼の押し開いた扉に気付く。もしかして、待っていてくれた?
 彼は何も言わない。何も言わずに私が扉をくぐるのを待っている。私はどぎまぎと『ありがとう』と呟いて、彼はというと小さく頭を下げるだけ。こういうとき、ちょっとだけ戸惑ってしまう。

 廊下に出ると窓の外は紅色だった。長い廊下に射す夕陽の影は、部活で遅くなった放課後を思い出す。
 吹きたいな、クラリネット。さっきの夢のせいもあって、無性にそう思った。
 勿論、懐かしいのはそれだけじゃないけれど。
 私と反対の方角へフィンは歩いていく。見渡してもケイはいないので(恐らく私が執務室に居ることに安心して、最近は本来の仕事に戻っているのだろう)、ひとりで自分の部屋を目指す。
 見上げた時計塔は三時半時を回ったところだ。日が落ちきるまでにはまだ余裕がありそうなので、今日はこの放課後の気配を味わいながらゆっくりと戻ることにしよう。

 そんな私を、向かいの窓から見つめる影が、ひとつ。