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小さな鍵と記憶の言葉

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 *

 白兎は急いでいた。
 何を思ったか水面の向こうの少女――リラは、今朝方から白兎の仕事に興味を示していた。それが悪いこととは言わないけれど、普段に比べて動き辛いのは確かだ。薔薇や給仕等、他人の視線に晒されるならともかく、相手はアリスその人だ。無邪気なのか何か意図があるのか、あの瞳はどうも普段通り業務をしようとしても落ち着かない。
 だから彼女が昼餉を摂っている今、滞りがちの仕事をこなすには今しかないのである。

 女王の間に顔を出し、巡回中だったジャックから報告を受け、廊下のソファで眠りこけていた眠り鼠を叩き起こして薔薇園へと向かわせる。同じ兎仲間のダミアンの仕事をひとつ楽にしたことに胸を撫で下ろし、執務室への帰路へ着く。
 本当は食堂へ顔を出そうかとも思ったけれども、きっとそんなことをしなくとも彼女はフィンのところへ戻ってくるつもりだろうと思いなおした。でなくても、忘れられていればそれはそれで働き易い。わざわざ藪から蛇を招く必要はないのである。

「今日は随分と俊敏だな」

 階段の途中で声をかけられて、頭上を仰ぎ見る。すると金の手摺にもたれてルーシャが笑っている。まるでどこかの猫のようだ。
「おや、リラはどうしたんだ。一緒ではないのか?」
「貴方ですか、芋虫。あの子を唆したのは」
 煙管を燻らせながら芋虫は笑う。吐き出した煙が宙に広がって、白兎の溜め息と共にゆらゆらと溶けていく。
「唆したとは人聞きが悪い。私は『これは如何に』と示しただけだよ」
「それが余計だと言うんです」
 白兎は困惑を隠すことなく首を振る。先刻のウミガメが無意識に厄介事を作る名人だとしたら、芋虫は意識的に厄介事を作り出す達人だ。ルーシャはあからさまに肩をすくめて見せた。
「いいじゃないか、楽しければ構わない」
「私は一向に楽しくありません」
「そうか? 充分楽しげに見えるが。それに」
 またひとつ、空中に輪が浮かんで掻き消える。
「あの子は、随分と楽しそうだろう?」
 白兎は喉の奥に言葉を詰まらせる。
 確かにリラは先日までの退屈そうな表情に代わり、屈託のない笑顔を見せてくれるようになっていた。おそらく一生受け入れてもらえないだろうと放り出していた彼にとって、それは戸惑うような出来事だった。歯がゆさと動揺。そして思い出されるのは、過去のこと。

「それで、どうしてくれるつもりなんです」
「さぁ? 打開策はせいぜい己で見つけるといい」
 くすくすと笑って白兎の様子を窺っている。もしかして一番楽しいのは貴方ではないのか、そう尋ねようとしつつも、諦めるしかなかった。
 いつまでも含み笑う芋虫を無視し、階段を昇る。角を曲がっても見られているような気がしていたが、もう気にはしないと背を向けた時点で決意していた。

 白兎は急ぐ。
 白兎が急ぐ理由なんて、『女王』のためだと物語でも決まっている。
 クロケーをすると騒いでも、白い薔薇を赤に変えるにしても、白兎はそれに従うだけ。勿論それに異論は無いし、不満なんて存在する筈がない。

「まって、フィン!」

 そういったことを思案していると、ふいに声が聞こえた。振り向かなくても分かる。けれど、反射的に振り返って息を呑んだ。
 何に驚いたのかは自分でも分からない。突然名前を呼ばれたことか、急に目の前に現れたことか。

 とにかく、目の前の微笑みに眩しさを憶えながら、彼女の名を呼んだ。