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小さな鍵と記憶の言葉

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 段々息切れして来た頃、歩いて歩いて、なんだか見覚えある大きな扉の前に辿り着いた。私は胸を撫で下ろしたい気持ちでそれを見上げる。
 本当は段々と後悔していたのだ。止められることもないから気軽に散策してみたけれど、一人でうろうろするには不似合いの場所だった。あまり長い時間が経ったわけでもないのに、今はダミアンの紅茶がとても懐かしい。

 だから、私の身長の二倍ほどある大きなドア。
 はじめはそれが、あの絨毯の敷かれた区画へ続くものだと思って疑わなかったのだ。広い廊下にひとつだけ、雰囲気の違う観音開きの扉。私が目を覚ました部屋へ続く廊下への。
 しかし手を伸ばしかけて、とっさに気が付いてしまう。

 ――何か、違うような?

 上から下まで確かめなくても、第一の変化は目の前にあった。この扉は押し戸なのか引き戸なのか。疑問に思ったのも仕方が無い。廊下への扉には押し開くための金色の取っ手があったのに、目の前のそれにはないからだ。そうすると急に表面を覆う模様さえ異なるような確信さえし始める。あの扉はもっと装飾も色使いも華やかだったような気がする。そうだ。やっぱり、全然違う。どうして分からなかったんだろう。
 それだけじゃない。調度品も内装も綺麗に手入れされているのに、どうしてこの辺りだけ妙に閑散としているのだろう。大きな花瓶に活けられた花も隅に添えられたソファも変わらないはずなのに。たちまちに廊下一帯に影が差したような錯覚さえ抱えた。
 不安に追い討ちをかけたのは、ひとつの反響。

「おい、お前! そこで何をしている」

 採光の低い回廊に誰かの声が響いた。突然の呼びかけに私は驚いて振り向いた。
 廊下の向こうから、腰に剣を携えた男性が近付いてくる。その姿から何度か擦れ違った警備《カード》のひとりだと察知する。そして、彼の表情が険しいことも。
 逃げることもままならないうちに、カードが私の目の前に立ち塞がった。威圧感は制服のせいだけじゃない。

「新入り顔だな。薔薇の新芽か」
「はい――そうです」
 とっさに答えておきながら、その選択が誤りだったと彼の表情から理解する。
「それは妙だな。薔薇なら真っ先に時計塔について注意されるはずだが」
 益々険しくなる表情に気持ちばかりが焦る。どうやらこの場所は城の中でも特に重要な場所らしい。そういえば、城のあちこちでは忙しそうに働く薔薇やカードを見たのに、この廊下では誰一人会わなかった。

 どうしよう、ここは素直に本当のことを言ったほうがいいだろうか。いや、それより、この場所が例え《アリス》でも近寄っていけない場所だとしたら?今となっては余りに適当な自分の行動が恨めしい。後ろめたさが何倍にもなって両肩にのしかかってくる。
「どうした。答えられないのか」
「それは……」

 悪戯した生徒を怒る少し手前の先生みたいな表情。実際はそんなに生易しいものじゃない。本当は今すぐにでも逃げ出したいけれど、逃げるにしても何処に向かえばいいのか分からない。誰かに助けてもらいたくても、こんなに広いお城の中で『私』を知っている人間なんていない。

「それくらいにしておけ」

 言い淀んでいると、警護の背後からまた別の男性の声がした。聞いたことのない誰かのものだったけれど、今の私にはこの上ない救いの声に思えた。
「恥をかくのは己自身かもしれないぞ」
 カードが振り返る。その向こうには長い髪の男性がいた。かつかつと、手持ち無沙汰な気配を漂わせながら歩んでくる。
「ですが……」
 警護兵《カード》は困惑したように私とその人を見比べる。不審人物をどうにかするのは彼の仕事だろうし、けれど目の前の男性には逆らうことの出来ない立場なのか、葛藤に苛まれている様子が私にも分かった。すっかり覇気の無くなってしまったカードを後押しするように、男性が更に穏やかに口元を緩める。
「いいから、君は仕事に戻れ」
「……はい。失礼致します」
 ついに言葉に従うことにしたらしい。カードは困惑ぎみに私を一瞥した後、渋々ながら来た道を戻っていった。

 残されたのは私と、私を助けてくれた男の人。私は改めてその人を見る。髪と目が綺麗な藍色で、衣服も薔薇やカードとは違っていた。
 そればかりか白兎や三月兎とも少し雰囲気が異なっている。アオザイや旗袍(チャイナドレス)のように優雅な、刺繍が美しく生地のすらりと広がるシルエット。西洋風のお城の中に居ながら、どことなく東洋を思わせる装いだ。
「あの……ありがとうございました」
「何を礼を言われる必要があっただろうね?」
 真正面から目が合って慌てて頭を下げる。彼はさして気にしていない風情で頷いた。

「否、それより手を貸してくれないか」