天国へのパズル - ICHICO -
意識のとぎれる瞬間に見たモノとは余りにかけ離れていて、現実か夢か分からなくなった。
とりあえず目の前の少女に自分は生きているのか聞いた。
質問の意味を理解したのかしていないのか。彼女は考え込むような仕草をしてから席を離れ、一人の人間を連れてきた。
ひょろりと背の高い男だった。髪はぼさぼさに伸びていて着ているシャツも白衣もどこか薄汚れている。
少女に手を引かれて来たものの、どうも半信半疑だったらしい。目が覚めたことに驚いて呆然としていた。
そして少し潤んだ瞳で嬉しげに自分を見つめ、そっと頬を撫でて笑った。
「生きていて良かったね。」
それが先生とヒナとの出会いだった。
彼らは何も覚えていないヨリを側に置いてくれた。そんな優しい人達を思う。
先生はやたら気遣って色々と世話を焼いてくれたし、ヒナはヒナで年の近い友人が出来たことを喜んで、どこへ行くにもついてきたし、連れて行こうとした。
袖触れ合うも多少の縁。人として当たり前のことなのだろうけれど、たくさんいる中で何故自分だったのか今でも分からなかった。あの時助けて貰ったから今も生きている。
そう思うと感謝してもしきれないのに、ヒナが傍にいると、時々理由の分からぬ理不尽な感情に襲われた。
それはヒナが鏡の前で髪を編んでいた時に。
『先生』がヒナに笑いかける瞬間に。
周囲の人間が自分という『人間』の存在に気がついて、まるで怪物に対する嫌悪の表情を見せる時に。
そして、それをヒナが庇う度に。
凶暴で粗悪なその感情は、表に出してしまえばあまりに子供じみていた。人間として当たり前の感情なのかもしれない。が、ヨリにはそれがどういう物なのか理解し難く、人というカテゴライズから離れた自分には、分不相応なものにしか思えなかった。それに、その感情に名前を付けてしまえば、自分が本物の怪物に変わってしまうようで怖かった。
なので、それ心の隅にそっと隠していた。
先生は自分のこんな感情に気がついていたのだろうか。どうして自分に娘を任せたのだろう。
聞いてみたくとも、彼が戻らなくなって半年が経っていた。冷静に考えれば生きている可能性より死んでいる可能性の方が高い。
中央塔付近から0時発の貨物便の警笛ランプが光る。
スモッグで黒く染まる街の中を小さな光が点滅していた。何事も無かったかのように。彼らの思い出に浸る自分だけが、世界から遮断されてしまった様だった。振り返っても、部屋には毛布や食器類などの最低限の生活必需品位しか見あたらない。先生がいなくなってから、家具などは生活費の充てに売り払ってしまった。
唯一残る痕跡は、窓辺に置いてある写真立てだけだった。
傷だらけの小さな写真立てには若い頃の先生と小さなヒナが笑っている。くしゃくしゃの黒髪に無邪気な笑顔。その横で少女が幸せそうに笑う。
隣にはヒナとよく似た美しい婦人が寄り添っていた。ヒナの母親だと思うが、きちんと話して貰った事はない。背景に写るのは緑の美しい庭。もうこの庭で、この人達を見ることは出来ない。
気が付くとヨリは窓を開けていた。
街灯の影が大通りから細い路地へと続き、それがその先に続く血痕に見えた。夢であって欲しい事なのに、服に付いた血の匂いで目が覚める。
記憶が正しければ、ついさっきまでヒナは窓から見えるあの細い路地の先で仰向けになって倒れていた。以前に同じようなものをたくさん見た筈だった。なのに未だにヒナがそれらと同じになったと認識できない自分がいた。
ヒナの体には背中に三箇所、腹に五箇所の刺傷痕、そして左腕の一部分が『何者』かによって喰われていたらしい。
あんな死に方をするために彼女はここにいたのだろうか。
もう少し早く帰っていればこんな事にはならなかったかもしれない。
そう自分を責めてみるものの、何も変わる事は無く、空しさがこみ上げる。先生との約束も守れなかった。泣く事も叫ぶ事も出来ず、ヨリはただ窓辺で立ちすくむ。
こんな死に方をして、最後に彼女は何を思ったのだろう。
『お姉ちゃん』
道路に残った血痕が彼女の無言の訴えに思えて、ヨリは窓を閉めた。
彼女がここにいれば、眠らないのは体の毒だと言い、ヨリを寝具代わりのソファーまで引っ張っていった筈だ。
たまには自分から眠ることにしよう。
どうしようもない感情を胸に秘め、ヨリは固く結んでいた髪を解き始める。
ヨリは死んでいったヒナのことを思い出していた。
作品名:天国へのパズル - ICHICO - 作家名:きくちよ