ハザード
梯子を登るなどというのは、過去に子供をやったことがある人間ならば八割が経験済みだろう。公園によくある。もっとも、こんな視界の悪い中で梯子を登る羽目になるとも、その練習をしていたという意識を持つことも、ほとんどの人間は経験しない。
そう思うと、今の状況も悪くないかも知れない。
頭を打たないように天井との境目をくぐりぬけ、暗闇に支配されたときだった。
「兄やんまだ?」
と、久壱が縦穴を覗き込んだ。ぼわんぼわんと声が響き渡る。
「うおっ!」
その声に呼応するように梯子が激しい横揺れを始めた。久壱を見上げていた俺は思わず梯子を掴みなおした。こんなタイミングで地震は都合が良すぎるだろ!
「はっ?! なんだこれ?!」
「どうしたの?」
なんだか非常に愉快な格好で梯子にしがみつくしかなかったが、揺れはどんどん酷くなるばかりだ。
「うおおお!」
「兄やん?」
震度七の大地震もいいところ、とうとう梯子が傾きはじめた。違う、梯子だけじゃない、この穴自体も傾いている。塔自体が傾いているのではないか。
「久壱、お前しっかりつかまってろ……!」
「なんで? どこに?」
「あぶねぇっつってんだろ! いいからつかまれよ!」
「危ないの? 何か来るの?」
魂からの叫びも通じないのか。いつの間にか弟は地球外生命体になったのかと危惧したが、まさかの考えに至り、俺は久壱を再び見上げた。
そこには、俺が梯子に這い蹲っているにも関わらず、俺から見ると、明らかに逆さにこちらを覗き込んでいる久壱が居た。なるほど。
「い、急いで登るから、お前そこ退いてろ!」
舌を噛みそうになったが、何とか言葉にできた。
どうやら久壱の方は何の揺れもないらしい。俺だけが、この縦穴と梯子だけが大きく揺れ傾いているようだ。となると、俺はここを急いで突破すれば、この揺れに苛まれることもない! 正直これ以外の答えだったら俺にはどうしようもない!
幸いに、うつ伏せに傾いているので、誤って手を離しても垂直落下にはならない。
握力40なめんなよ。元野球部の力を見せるときが来たぜ。
久壱に撤退命令を出すのが早いか、くっと一回膝を折り、バネにして飛び上がる。
素早く持ち手を取り替えて、手に汗滲む暇もなく登っていく。
スピードに乗り始めた頃、久壱の「どいたよー」という声が聞こえて、がくんと視界が揺れた。
「はあっ?!」
手が滑りかけた。久壱が消えたのは確かで、それは俺も目視した。その瞬間、また視界がぶれて、揺れは何事もなかったかのように止み、傾斜も元の垂直状態に戻った。
心臓が口から飛び出しそうだ。陳腐な表現しかできないのがくやしいが、今はそんなことを言っている場合ではない。ばあいではないのだ。やばいのだ。
「兄やん? 何かあった?」
「なんでもない! なんでもないからもう覗き込むな!」
名探偵ではないが、ひらめき程度は所持している。嫌な予感は伊達じゃない。予感の有効活用くらいはできる。
声じゃない。声はずっと聞こえていた。鍵はもっと別の何かだ。
揺れていなかったときと、揺れていたとき。違っていたのは、久壱の姿。
もっと言うと、影だ。光だ。
俺は梯子をいっそう強く握り締めた。
「久壱、ちょっと手伝ってくれ。俺が見えるか?」
「兄やんさっきからおかしいよ」
呆れた口調で久壱がこちらを覗き込む。久壱の影で、梯子と縦穴は覆われる。
その瞬間だ。揺れが来たのは。
「っ、久壱、もういい、離れてくれ!」
「はぁ? 兄やんマジで大丈夫?」
何でこんな実験をする気になったのかはよく分からないが、兎に角これで合点はいった。今更だが、俺は行動や現象に理由を求めるタイプの人間だ。まぁそうでないときもあるから一概には言えない。それが人間というものだろう。
つまるところ、この縦穴から見える、蝋燭の光が弱まればこの縦穴は危ないってことだ。消えるのか崩れるのか、そのどちらかはわからないが、危ないことになるのはわかった。先に登った久壱が何事もなく登れたのも、これで一応説明はつく。
兎に角、また久壱がこちらを覗き込まないように、影を作らせないように、揺れが凪いでいるうちに梯子を登りきった。
「つ、ついた……」
穴から上半身だけを出し、五右衛門風呂状態の俺を、久壱が不思議そうな目で見ていた。
この状況に瀕して、若干楽しんでいる十歳の精神も、俺には不思議だ。さすが、忍者の姉と怪奇現象っぽいものに好かれてしまった兄を持つだけの末っ子ではない。いつか大物になるな。あっ、デジャヴ。
一山越えたところで全てを終わらせた気分になっていたが、改めて蝋燭に照らされた部屋を認識した途端、物語はまた加速を始めてしまった。
「凄いでしょ!」
俺が穴から這い出して、この空間に呆然としていると、久壱が誇らしげに言った。
「お前の部屋じゃねぇし」
とりあえずオートでツッコミを入れておいて、実際のところ、俺はこの部屋に見とれていた。
淡く揺らめく室内。木造の小さな部屋だ。
中心にぽっかりと開いた、登ってきた梯子穴を囲むように、空白を惜しむように並べられ、或いは無造作に置かれた蝋燭たち。形は皆一様に、白色で縦に長い。いわゆる、神棚や仏壇なんかに供えられる蝋燭だ。それら全てに火が灯っている。
「まぁ、凄いな」
気味が悪いとは思わなかった。思い描いていたのとわりと近いイメージで、むしろ納得した感じだ。
「まぁ安心してよ、おれが一番大きいやつ見つけておいたからさ」
久壱が楽しそうに指をさして、若干身体をどかすように自らの後方を示した。
そこにはしっかりと、他より二周りくらい大きい蝋燭が鎮座していた。揺れる炎も少し大きい。
「たまには役に立つんだな」
「いつも役に立ってるじゃん」
心外そうに文句を言ってくるが、一応誉め言葉だということを理解しているのか、特にそれ以上の反論はなかった。
「早く掴んで帰ろうよ」
「掴むって言ったって……」
少し渋る。それもそのはず。
残念ながら、目的の蝋燭は、他の蝋燭の壁ができていて、少し手を伸ばさないと掴めない。
手の平だけでいい、このリアルファイアウォールを突破するときに保護してくれるものが何かあればいいのだが。
たじろいでいると、久壱が腕を引っ張った。
「なんだ?」
「プレゼント」
そういって差し出されたのは、元凶たるあの忌まわしき、黒革の不気味手袋だった。
「なんでお前持ってるんだよ!」
「ごめんなさい……ずっとポケットに入ってたんだ。あの生首が、『手袋がない』って言ったときから兄やんに言おうと思ってたんだけど、兄やんキレてたから」
キレる若者にはそれ相応のツケがあることを今ここで思い知った。ゲーム脳反対!
まぁ。
「……それ貸してくれ」
少し前の会話くらいは覚えている。あの蝋人間が手袋をなくしてしまったから蝋燭をつかめないというのなら、この手袋があれば、まぁ恐らく大丈夫だということなのだろう。
久壱から手袋を受け取り、右手にはめる。
もう後先など考えていられない。終わらせたい。外れなかったら教会に行けばいいんだ。神父が居ればいいけど。
「…………」