mizutoki catastrophe
/ハッピーサイクル
「ねえ、お兄ちゃん」
朝食を終えたイズミが台所のぼくを呼ぶ。
「遠くに行きたい」
退屈そうな体操座りで左右に揺れている。
「とはいっても旅費なんてないぞ」
ぼくは財布を確認してみるけれど、頼りなさだけが手応えとして返ってくるばかり。
不満げなときのくせ。むぎゅうとイズミの腕に潰された大きな猫のぬいぐるみが恨みがましくぼくを見る。
「すねないすねない」「すねてないです」
そういってそっぽを向かれる。表情の変化以上に感情の変化が分かりやすい。
「ねえ、お兄ちゃん。自転車でどこかに行きたい」譲歩。「うちに自転車なんかないぞ」冷徹な事実。
「実はわたしによい考えがあるのです」
にやりとイズミが微笑む。慣れていないのか笑顔がへたくそだ。
「ここか」
イズミの言う「よい考え」を信じ向かった先は近所の自転車屋さん。
ハッピーサイクル。デパートの自転車コーナーより慎ましい佇まい。ひかえめに張りだしたテラスの裏ではツバメの巣がぽつんと。
「自転車買うお金もないぞ」
人の良さそうな女性店主の目の前で妹へ忠告を行う。イズミは再び変な顔でガラス上の貼り紙を指す。『貸し自転車アリアス』。
アリアスって何だ。
「これをかりて出かける」
料金表には一時間百円、五時間で三百円とある。この価格ならリーズナブルに感じる。
「じゃあ、すみません。自転車二台を五時間レンタルで」
「はい。では六百円になりますね」
支払おうとすると、イズミが声をあげた。
「あ、あのっ。一台がいいです!」
「あら、一台でよろしかったのですか」
「お兄ちゃんはびんぼーですから!」
そんなに力いっぱい言わないでおくれよ。
「でも、ほんとに二台で大丈夫だぞ。思ったよりだいぶ安いし」
見栄半分にぼくが言うと、「きっ!」と実際に音を立ててイズミがにらんできた。
店主はぼくらの様子を見て笑いながら、
「では一台にしておきますね」
貸し出されたのは軽快車、いわゆるママチャリ。イズミはその荷台に乗るようだ。
「行っておいで……気をつけて。アリアス」
見送る店主。どうやら、アリアスは自転車〈カレ〉の名前だったようだ。
さて、自転車で小一時間川沿いの道を上流へ向かえば、貯水池公園にたどり着く。
「涼しいな」
ぼくはうしろに座るイズミの声をかけた。上流の風はふもとより少し冷えている。
「わたしはむしろあつい」
背中にぴったりひっつけたイズミの胸から少しだけ湿った感触がする。
「じゃあ、ちょっとおりて歩くか?」
「いい、これが幸せ」
「まあ、ぼくもこのままの方が楽だ」
貯水池までたどり着くと平坦な道が続く。自転車はからからと音を立てることもなく、スムーズに車輪を回転させる。
静かな道に澄んだ空気、天然のクーラーみたいな木陰のやさしい風。
「ハッピーサイクル……」
イズミがうれしそうな声色で何か呟いた。
幸福の循環。イズミの言う「よい考え」もなかなか悪くない。
作品名:mizutoki catastrophe 作家名:白日朝日