りんみや あんにゅい1
空から零れてくる雨は、朝からずっと降り止まない。午後には、激しさを増し、気温まで引き下げた。帰る頃に億劫になるほど寒くなければいいのに、と、思いながら、机に向かっている。
「アンニュイだな。」
「はあ? 気でも触れたか? 松村。」
友人が、横手で素っ頓狂な声を上げる。経営は順調で、そろそろ現場仕事を引退したい
、なんて言ってる男が、いきなり慌てたように近寄ってくる。
「俺だって物思いに耽ることぐらいあるんだけどな。」
「いや、それはおかしい。もう、いいから、おまえは帰れ、ていうか、帰ってくれっっ。
そんな調子で、突拍子もないミスをされたら、そのほうが怖い。」
「失敬な。ミスなんかするかよ。」
「そもそも、おまえが、そんなことを言うのは、脳の回路がへしゃげているせいだ。帰れ
。帰ってくれ。」
「呼び出したのは、おまえだぞ。」
とても、普通のSEでは組めないから、と、友人が泣きついてきた。何台ものマシンが
必要で、自宅ではできない代物だったから、わざわざ出てきたのだ。
「それで、これは、どうするんだ? 」
「あーなー、俺では無理だし、うちのスタッフでも無理だ。」
「それで、期日が十日後なんだろ? 今、おおまかに組んで、詳細を振り分けないと間に
合わないぞ。」
たまに、難しい仕事がある。自分が組まないで、外注すれば、赤字になってしまう仕事
だ。どこも不景気で、余分な利益はない。
「じゃあ、ちょっと休憩してこいよ。メシまだだろ? 」
財布から、万札を一枚取り出して、押しつけてきた。経営者になって、人の扱いは覚え
たらしい。
「贅沢なメシだな? 」
「・・・仕方がない。おまえに正気に戻って貰うための出費なら妥当だ。本日中に終わっ
てくれればいいから。」
つまりは、本日、真夜中が締め切りだから、しばらく、どこかで仮眠するもよし、ぶら
りと散歩するもよし、本気で高い食事をするもよし、ということらしい。とはいうものの
、こんな雨の中では、公園のベンチで昼寝をするわけにもいない。さて、どうしたものか
、と、考えていたら、「おまえんとこのガキが、また悪いのか? 」 と、友人が心配を
声にした。
「いいや、治療が終わって、今、女房の実家へ遊びに行ってるよ。じいさまが、うちのガ
キを気に入ったらしくてな。」
「ああ、そういうことか。気が抜けたんだな。」
「そうかもしれないな。なんか、激動の五年だったからさ。」
「なら、おつりは返せよ。」
「あ? 」
「何が、『アンニュイ』だ。腑抜けてるだけじゃないか。心配して損した。さっさと飯食
って来い。」
そう言って追い出してくれる友人は、少し楽しそうだ。ずっと、子供のことを世話して
いた自分を、見ていた相手だ。それなりに、子供の回復は嬉しいのだろう。
結局、ビルの屋上で、雨を眺めながら、パンと珈琲という昼飯を食べた。なんだか、安
堵した気分と、いきなり忙しさから解放された寂しさが相俟って、自分の中でぐるぐると
巡っている。これで、もう、あれは自由になれる。ゆっくりゆっくりと、外へ手を伸ばせ
ばいい。
これまでの長い時間できなかったことをやればいい。
「そしたら、俺は、どうするかな? ・・・ああ、とりあえず借金を返済しなきゃならの
んか。」
治療費は、恐ろしい数字に跳ね上がっている。妻が支払いはしてしまったが、これは折
半だと決めている。
働いて、借金を返したら、次は何があるだろう。なんだか、次の目標を定めないと動け
ない体質になってしまった。ひとりで空を見上げて笑う。
とことん貧乏性は染みついてるなあ。まあ、いいさ。とりあえず働ける間は働ければい
いんだ。
気持ちの区切りをつけて、立ち上がった。まだ、先は長そうだ。
どうも、先日から、えふえふと犬のように五月蠅い。さらに、メシを食わない。出稼ぎ
先で、風邪を貰ってきたらしいが、「鼻風邪だ。」 の一言で、ティッシュを鼻につっこ
んで仕事をしている。いい加減、養生させたほうがいいだろうと、部屋に顔を出したら、
寝坊している。
「あれ? りんさん? 」
寝室の入り口で声をかけたら、「寝かせてくれ~」という、やや聞き取りにくい声がす
る。
「薬は? 」
「いいから寝かせといてくれ。締め切り一個終わったから。」
ここまでしゃかりきに働かなくてもいいだろうに、このとうちゃん、生来の貧乏性のお
陰で、せっせと働く。当人は、「髪結い床の亭主」という身分に永久就職したはずなのだ
が、ワーカーホリック(仕事中毒)が抜けない。
「小椋さんを呼ぼうか? 」
「ただの鼻風邪で、院長先生を呼びつけるなよ、ウラさん。いいから、寝かせてくれ。」
「あんたな、それ、どう見ても鼻風邪じゃないぞ。インフルエンザとかだったら、まずい
んじゃないのか? 」
「大袈裟なんだよ、あんたは。いつものことだから、気にしないでくれ。」
「はあ? あんたが倒れたのは、五年前以来だぞ。」
「その前は、締め切り明けには倒れてたよ。」
布団の中から手だけ出てきて、ひらひらと振った。「出て行け」ということらしい。生
憎と、とうちゃんの奥様で、自分の雇用主は仕事で出ていて、戻るのは二ヶ月後だ。何を
言っても聞かないのは、いつものことだ。だから、とりあえず、放置することにした。倒
れてくれないと、こちらも動けないからだ。
夕刻まで、執務室で仕事をしていたら、芙由子さんが困り顔でやってきた。とうちゃん
が、食事どころか寝室からも出てこないと言うのだ。
「お昼も夜もいらない、と、おっしゃって、着替えをしていただこうとしても、いい、っ
て。パパさんの無頓着には慣れたつもりだったんですけどね。」
五年も付き合っていれば、完全無欠の無頓着だということは、ここの人間にも知れてい
る。それでも、ここ数日は食事はいらないと言い続けられたら、心配になるというものだ
。
「りんさん、適当にコンビニまでは行ってるから、そちらで食料調達してるんですよ。」
「え? 佐伯の料理が、お口に合いませんの? 」
「いや、そういうわけじゃなくて、ジャンクフードに飢えてたみたいです。ここ五年は、
ほとんど、家からも出ていないから、羽を伸ばしてるらしいですよ。」
当人は、そういうことらしい。子供の治療が終わって、どうにか一息ついた。だから、
ちょっとばかり羽を伸ばしていると、この間、言っていた。
「でも、酷い声だし、咳も酷いんですよ、浦上さん。お医者様を呼んだほうが・・・・」
「そろそろ呼んだほうがいいですかね。」
「ええ、いいと思います。」
「それじゃあ、明日、手配をしますから、しばらく、佐伯家へ居候させてもらえますか?
」
「はい、わかりました。用意しておきますね。」
当人の寝室で寝かせておくと、勝手にパソを起動させてしまう。だから、そういうもの
が、一切ない佐伯家に居候させれば、大人しく養生させられるだろうという考えだ。芙由
子のほうも、それは理解できているので、簡単に頷いた。
そろそろ、深夜だろうという時刻に、とうちゃんの様子を伺ったら、仕事をしていた。
ご丁寧に仕事場で、鼻にはティッシュを押し込んでいる。
「一回、入院するかい? りんさん。」
「アンニュイだな。」
「はあ? 気でも触れたか? 松村。」
友人が、横手で素っ頓狂な声を上げる。経営は順調で、そろそろ現場仕事を引退したい
、なんて言ってる男が、いきなり慌てたように近寄ってくる。
「俺だって物思いに耽ることぐらいあるんだけどな。」
「いや、それはおかしい。もう、いいから、おまえは帰れ、ていうか、帰ってくれっっ。
そんな調子で、突拍子もないミスをされたら、そのほうが怖い。」
「失敬な。ミスなんかするかよ。」
「そもそも、おまえが、そんなことを言うのは、脳の回路がへしゃげているせいだ。帰れ
。帰ってくれ。」
「呼び出したのは、おまえだぞ。」
とても、普通のSEでは組めないから、と、友人が泣きついてきた。何台ものマシンが
必要で、自宅ではできない代物だったから、わざわざ出てきたのだ。
「それで、これは、どうするんだ? 」
「あーなー、俺では無理だし、うちのスタッフでも無理だ。」
「それで、期日が十日後なんだろ? 今、おおまかに組んで、詳細を振り分けないと間に
合わないぞ。」
たまに、難しい仕事がある。自分が組まないで、外注すれば、赤字になってしまう仕事
だ。どこも不景気で、余分な利益はない。
「じゃあ、ちょっと休憩してこいよ。メシまだだろ? 」
財布から、万札を一枚取り出して、押しつけてきた。経営者になって、人の扱いは覚え
たらしい。
「贅沢なメシだな? 」
「・・・仕方がない。おまえに正気に戻って貰うための出費なら妥当だ。本日中に終わっ
てくれればいいから。」
つまりは、本日、真夜中が締め切りだから、しばらく、どこかで仮眠するもよし、ぶら
りと散歩するもよし、本気で高い食事をするもよし、ということらしい。とはいうものの
、こんな雨の中では、公園のベンチで昼寝をするわけにもいない。さて、どうしたものか
、と、考えていたら、「おまえんとこのガキが、また悪いのか? 」 と、友人が心配を
声にした。
「いいや、治療が終わって、今、女房の実家へ遊びに行ってるよ。じいさまが、うちのガ
キを気に入ったらしくてな。」
「ああ、そういうことか。気が抜けたんだな。」
「そうかもしれないな。なんか、激動の五年だったからさ。」
「なら、おつりは返せよ。」
「あ? 」
「何が、『アンニュイ』だ。腑抜けてるだけじゃないか。心配して損した。さっさと飯食
って来い。」
そう言って追い出してくれる友人は、少し楽しそうだ。ずっと、子供のことを世話して
いた自分を、見ていた相手だ。それなりに、子供の回復は嬉しいのだろう。
結局、ビルの屋上で、雨を眺めながら、パンと珈琲という昼飯を食べた。なんだか、安
堵した気分と、いきなり忙しさから解放された寂しさが相俟って、自分の中でぐるぐると
巡っている。これで、もう、あれは自由になれる。ゆっくりゆっくりと、外へ手を伸ばせ
ばいい。
これまでの長い時間できなかったことをやればいい。
「そしたら、俺は、どうするかな? ・・・ああ、とりあえず借金を返済しなきゃならの
んか。」
治療費は、恐ろしい数字に跳ね上がっている。妻が支払いはしてしまったが、これは折
半だと決めている。
働いて、借金を返したら、次は何があるだろう。なんだか、次の目標を定めないと動け
ない体質になってしまった。ひとりで空を見上げて笑う。
とことん貧乏性は染みついてるなあ。まあ、いいさ。とりあえず働ける間は働ければい
いんだ。
気持ちの区切りをつけて、立ち上がった。まだ、先は長そうだ。
どうも、先日から、えふえふと犬のように五月蠅い。さらに、メシを食わない。出稼ぎ
先で、風邪を貰ってきたらしいが、「鼻風邪だ。」 の一言で、ティッシュを鼻につっこ
んで仕事をしている。いい加減、養生させたほうがいいだろうと、部屋に顔を出したら、
寝坊している。
「あれ? りんさん? 」
寝室の入り口で声をかけたら、「寝かせてくれ~」という、やや聞き取りにくい声がす
る。
「薬は? 」
「いいから寝かせといてくれ。締め切り一個終わったから。」
ここまでしゃかりきに働かなくてもいいだろうに、このとうちゃん、生来の貧乏性のお
陰で、せっせと働く。当人は、「髪結い床の亭主」という身分に永久就職したはずなのだ
が、ワーカーホリック(仕事中毒)が抜けない。
「小椋さんを呼ぼうか? 」
「ただの鼻風邪で、院長先生を呼びつけるなよ、ウラさん。いいから、寝かせてくれ。」
「あんたな、それ、どう見ても鼻風邪じゃないぞ。インフルエンザとかだったら、まずい
んじゃないのか? 」
「大袈裟なんだよ、あんたは。いつものことだから、気にしないでくれ。」
「はあ? あんたが倒れたのは、五年前以来だぞ。」
「その前は、締め切り明けには倒れてたよ。」
布団の中から手だけ出てきて、ひらひらと振った。「出て行け」ということらしい。生
憎と、とうちゃんの奥様で、自分の雇用主は仕事で出ていて、戻るのは二ヶ月後だ。何を
言っても聞かないのは、いつものことだ。だから、とりあえず、放置することにした。倒
れてくれないと、こちらも動けないからだ。
夕刻まで、執務室で仕事をしていたら、芙由子さんが困り顔でやってきた。とうちゃん
が、食事どころか寝室からも出てこないと言うのだ。
「お昼も夜もいらない、と、おっしゃって、着替えをしていただこうとしても、いい、っ
て。パパさんの無頓着には慣れたつもりだったんですけどね。」
五年も付き合っていれば、完全無欠の無頓着だということは、ここの人間にも知れてい
る。それでも、ここ数日は食事はいらないと言い続けられたら、心配になるというものだ
。
「りんさん、適当にコンビニまでは行ってるから、そちらで食料調達してるんですよ。」
「え? 佐伯の料理が、お口に合いませんの? 」
「いや、そういうわけじゃなくて、ジャンクフードに飢えてたみたいです。ここ五年は、
ほとんど、家からも出ていないから、羽を伸ばしてるらしいですよ。」
当人は、そういうことらしい。子供の治療が終わって、どうにか一息ついた。だから、
ちょっとばかり羽を伸ばしていると、この間、言っていた。
「でも、酷い声だし、咳も酷いんですよ、浦上さん。お医者様を呼んだほうが・・・・」
「そろそろ呼んだほうがいいですかね。」
「ええ、いいと思います。」
「それじゃあ、明日、手配をしますから、しばらく、佐伯家へ居候させてもらえますか?
」
「はい、わかりました。用意しておきますね。」
当人の寝室で寝かせておくと、勝手にパソを起動させてしまう。だから、そういうもの
が、一切ない佐伯家に居候させれば、大人しく養生させられるだろうという考えだ。芙由
子のほうも、それは理解できているので、簡単に頷いた。
そろそろ、深夜だろうという時刻に、とうちゃんの様子を伺ったら、仕事をしていた。
ご丁寧に仕事場で、鼻にはティッシュを押し込んでいる。
「一回、入院するかい? りんさん。」
作品名:りんみや あんにゅい1 作家名:篠義