カオリとトモコ~それぞれの道~
ある日の朝、餌をやって撫ぜていると、ブルドックにとって、モモコは欠かせない存在だというのをあらためて気づいた。それに反して、夫は自分を単なる欲望のはけ口として見ていない。そう思うとモモコは泣けてきた。
珍しく昭夫が深夜に突然帰宅した。モモコが寝ていると、昭夫はベッドに入ってきた。当然のことのようにモモコを抱こうとした。モモコは拒絶した。
昭夫は驚いて、「どうした? 体の具合でも悪いか?」と聞いた。
モモコは黙って答えない。もう一度昭夫は抱こうとした。はやり拒絶した。
「どうした?」
「嫌なのか?」
「そう、嫌なの。あなたに抱かれることが……」と言った後、自分で驚いた。
夫は「そうかい」と言って寝室を出ていって、書斎で寝た。
次の日、朝、モモコは「外で好きな人がいるのでしょ?」と夫に聞いた。
「分かったか」と平然と答えた。
「子供もいるのでしょ?」
「いる」
「その人と結婚したら」
「本気でそんなことを言っているのか?」
「こんなこと、冗談で言えないでしょ?」
まるで別人のようだと思った。以前は躾のいい、自分の意思を持たない人形のような女だと思っていたから。
「遊びだよ」
「遊びで子供まで作るの?」
「別に作ろうとしたわけではない。できてしまっただけだ」
できてしまっただけ! その一言で彼女の怒りが爆発した。が、その怒りを昭夫にぶつけることができず、彼女は声をあげて泣くだけだったが。
「何なら、彼女と別れてもいい」と言った。
昭夫の愛人の恵子は欲深き女だった。そのうえ男にだらしのない。愛を囁かれると、どんな男でも股を開く。とても結婚できるようなではなかった。昭夫が泊まると、どんなに疲れていようが、毎晩のように求めてくる。その欲望の深さにこの頃、辟易している。無論、そんなことをモモコは知らない。
モモコが泣き始めた。涙が止まらない。泣いても、泣いても、涙が止めどもなく流れてきた。昭夫は打つ手なしと悟って家を出た。結局は恵子のところに行った。
初秋の頃である。
見舞に来たモモコを認めると、静子は、「私は何のために生きてきたのかしら」と呟いた。
「人間ってあっけないものね。死んでしまうと何もかも消えるのね。まるで何もなかったように」と呟いた。
その顔は放心しきり、魂が抜けたような顔をしていた。
母はこの田村家を守るために生きてきた人だった。その田村の長男、つまりモモコの弟の由紀夫を十五年前に交通事故で失ってから急に老けてしまった。さらに追い打ちかけるようにがんになった。その命も長くないと悟っている。
ナツが長旅から戻ってきた。部屋に来てというので、モモコはナツのマンションを訪ねた。
「どう、旅は良かった?」
「良かったわ」と何だか投げやりな返事だ。
「どうしたの?」
突然、ナツが泣き出した。
「どうしたのよ」
「あいつは二股をかけていたの。旅行の終わり日だった。あいつの携帯が鳴ったの。あいつが寝ていたので、代わりに出たら、女だった。それも随分と若い女の声だった。私が出ると、女は直ぐに切ったけど。あいつを叩き起こして、どういうことと問い詰めたら、あっさり、恋人だというの。その瞬間、最高の旅行が最低の旅行になった。実にふざけた話でしょ? ここに来るまで、ずっと泣きっぱなしだった。もう涙も枯れたはずなのに、あなたを見たら泣けてきた」
ナツの良いところは躓いて転んで泣いても、次の日には何もなかったように笑顔になれることだ。そんな真似はモモコにはできなかった。今はそっとしておこうと思い、モモコはさよならも言わず、そっとナツの部屋を出た。
翌朝、モモコはナツに電話した。
「犬、どうする?」
「あげる」
「じゃ、もらうわ。それから、夫と別れることにした」
「良かったね」
「実家に戻ってやり直そうと思う。ブルドックと一緒に」
「今度、遊びに行くね」
モモコがそう言うと、二人とも声をあげて笑った。
作品名:カオリとトモコ~それぞれの道~ 作家名:楡井英夫