カオリとトモコ~それぞれの道~
『それぞれの選択、モモコとナツの場合』
そこは海に面した病院である。
モモコは母親の静子と病院の屋上から海を眺めていた。夏の名残のような燦々と輝く日を浴びて、海は金属のように煌いている。
「海はいいわね」と静子は言った。
「そうね」とモモコはうなずいた。
二人の会話はいつもこんな感じだった。平凡なことを淡々と話しながら、ふっと、ある瞬間、会話が途絶えるが、それがいかにも自然なので、どちらもおかしいとは思わない。
風の音がした。ふと、耳を済ませると、波の音も聞こえそうほどまわりは静かだ。
突然、静子が、「あなたは幸せなの?」と聞いた。
モモコはどきっとしたが、「どういうこと?」とモモコは微笑んだ。
静子はその微笑が偽りだということを容易に見抜いた。
「あなたを見ていると、幸せそうには見えないから」
モモコが安田家の長男昭夫に嫁いで二十年が経つ。安田家はN市でも有数の名家だ。資産家もある。傍から見れば、恵まれた生活を送っているように映るだろう。しかし、彼女は人が羨むほど幸せではなかった。何もかも形式で、ただ時間だけが過ぎていく日々だった。夫との間に子供いなかった。勝手に子供ができないのは自分のせいだと思っている。だから、夫がよそで愛人を囲っても文句は言わない。
「そんなことはないわよ」とモモコは否定した。
「それならいいけど……」と静子は言葉を詰まらせた。
静子はガンで余命幾何もない。医者からそう宣告されている。そのことをモモコも知っている。だからこそ、余計な心配はかけたくないのだ。
「あたしは不幸せそうに見える?」とモモコは数少ない友人のナツに聞いた。
ナツは男の世話なりたくないという信念から四十歳になっても独身でいる。しかし恋人はいる。もっとも恋人は二、三年おきに変わる。恋をして濃密な時間を過ごすと、相手のあらが見えてくる。ある日、それが突然嫌になるという。それが男を取り替える理由だという。自由奔放な生き方をしているナツを、モモコは口にこそしないがうらやましく思っている。
「そう見えるわ」とナツは答えた。
「どこで分かる?」
「どこで、顔に書いてある」
「そう……やっぱり」とため息をついた。
モモコは困ると不思議な微笑を浮かべる。その微笑の意味を知っているナツは、
「どうしたのよ。今日のモモコは変だぞ」
「最近気づいたの。自分は変だって。夫に愛人がいるの。そして二人の間に子供ができたの。それに気づいても、何も怒らない自分に驚いている。寧ろ、これで安田家の血筋が途絶えずにすんだとほっとしている」
「あんたはつくづく馬鹿ね。呆れた……私だったら、そんな夫の横っ面を引っ叩いて、直ぐに離婚する」
「そうね、ナツなら、そうするね」とモモコはくすっと笑った。
「でも、私はずっと子供を作らないといけないと思っていたから、何だか肩の荷が下りたようで、ほっとしているの。最近、夫は家に戻らないの。たぶん、愛人のマンションに入り浸りだと思うけど」
「あなたはそれで幸せなの?」
「それが分からないの。何も考えられないんだから、きっと脳死状態ね」とモモコは微笑んだ。
「そんな生活はちっとも幸せじゃない。たくさん慰謝料をもらって、別れて自由気ままに生きた方がずっとましよ。それとも安田という名前にこだわる理由はあるの?」
「ないわよ、そんなの……」とモモコは言葉を詰まらせた。
今の自分は安田家を飾る一つのひな人形のような存在でしかないことを、モモコは十分知っていた。仮に夫が別れてくれといったなら、素直に受け入れようとも思っている。けれど夫は何も言わない。それは優柔不断な夫の気の弱さを示すのか、それとも他に何か言えないような理由があるのかは分からなかった。ただ時間だけが過ぎていくのだけは事実だった。少しずつ、少しずつ。手のひらから掬った砂がこぼれていくように。
モモコは母の余命が幾何もないと知って、何度も一人で泣いた。そして泣きながら、あれこれ、考えた。母親が死んだら、血のつながりのある人間はいなくなる。そのうえ、夫から離婚されたら、文字どおり、この世で独りぼっちになる。他で女を作り、そのうえ子供までもうけた夫に対する憎しみがないわけではない。それでも、ときたま抱かれるとき、その温もりに中に、何かしら心の安らぎを感じている自分がいることを知っている。全て関係を持たない世界、そこにぽつんと置かれている自分を想像するができない。独りぼっちになるという恐怖感。それが今のモモコの心を満たしている。
「ナツは独りでいることが怖くないの?」
「怖くはないわ……私には犬がいるし、恋人もいる。でも犬はいつか死別する。恋人も去っていく。そんなことは知っている。その場面になったとき、顔がぐしゃぐしゃになるほど泣くけど、それに耐えて生きていく自信はある。何度も経験したから」とナツは笑った。
「羨ましい……」とモモコは微笑んだ。
「羨ましい? 私からすれば、モモコの方がずっと羨ましいわよ。いまだに美人で若々しい。とても四十歳には見えない。二十歳後半とさばを読んでも誰も分からないわよ」
「それは幾らなんでも褒めすぎよ」
「そんなことはないわよ。私なんか、長年のタバコと酒のせいで肌はボロボロ、そして声はガラガラ。どんな厚化粧しても、老化は誤魔化せない。あなたが羨ましい。まるで大理石の肌のよう……」とモモコの顔をそっと撫ぜる。
「その美しさがあれば、あなたは今からでもやり直せる。たくさん慰謝料をもらってやり直しなさいよ。金さえあれば、何でもできる。私もお金が欲しいけど、あるのは借金だけ。借金があるのは、今の恋人にも言ってないの。言ったら、その額を聞いて腰を抜かすから」と笑った。
ナツをあらためて羨ましいと思った。笑うときも泣くとも声を上げる。行きたいところはとことん行く。誰も彼女を遮ることも縛り付けることもできない。天衣無縫ともいえるような生き方をしている。自分に実に素直な生き方をしている。
「どうやったら、ナツのように生きられる?」
「簡単よ、好きなことをして、嫌いなことをしない。自分の気持ちに素直になることよ」
「好きなことをするか……」
「そう好きなことをすればいいの。男に抱かれたいと思ったら、抱かれればいいの……そうだ、ぜんぜん関係ない話だけど、一か月、犬を預かってくれない?」
「犬? 犬って、このブルドックのこと、一ヶ月も!」
「そう、このブルドックよ。実を言うと、今度、彼と旅をするの。このブルドック、モモコにも懐いているから。ちょうどいい気分転換になるわよ。もし気に入ったら、あげてもいいわよ。実をいうと、今の彼は犬嫌いなの。だから絶対に家には来ないのよ。犬も彼氏も両方とも好きだけど、今は少しだけ彼氏の方にメロメロなの」とナツが照れた。
ブルドックの面倒みるようになって、生活が一変した。ブルドックの中心の生活になったのである。
モモコはブルドックを可愛がった。ブルドックはあまり吠えない。撫ぜると目を細め、すぐ腹を見せる。何ともかわいらしい。手を出すと手を舐める。お腹が空くと、早くご飯とを頂戴と足に纏わり付く。
そこは海に面した病院である。
モモコは母親の静子と病院の屋上から海を眺めていた。夏の名残のような燦々と輝く日を浴びて、海は金属のように煌いている。
「海はいいわね」と静子は言った。
「そうね」とモモコはうなずいた。
二人の会話はいつもこんな感じだった。平凡なことを淡々と話しながら、ふっと、ある瞬間、会話が途絶えるが、それがいかにも自然なので、どちらもおかしいとは思わない。
風の音がした。ふと、耳を済ませると、波の音も聞こえそうほどまわりは静かだ。
突然、静子が、「あなたは幸せなの?」と聞いた。
モモコはどきっとしたが、「どういうこと?」とモモコは微笑んだ。
静子はその微笑が偽りだということを容易に見抜いた。
「あなたを見ていると、幸せそうには見えないから」
モモコが安田家の長男昭夫に嫁いで二十年が経つ。安田家はN市でも有数の名家だ。資産家もある。傍から見れば、恵まれた生活を送っているように映るだろう。しかし、彼女は人が羨むほど幸せではなかった。何もかも形式で、ただ時間だけが過ぎていく日々だった。夫との間に子供いなかった。勝手に子供ができないのは自分のせいだと思っている。だから、夫がよそで愛人を囲っても文句は言わない。
「そんなことはないわよ」とモモコは否定した。
「それならいいけど……」と静子は言葉を詰まらせた。
静子はガンで余命幾何もない。医者からそう宣告されている。そのことをモモコも知っている。だからこそ、余計な心配はかけたくないのだ。
「あたしは不幸せそうに見える?」とモモコは数少ない友人のナツに聞いた。
ナツは男の世話なりたくないという信念から四十歳になっても独身でいる。しかし恋人はいる。もっとも恋人は二、三年おきに変わる。恋をして濃密な時間を過ごすと、相手のあらが見えてくる。ある日、それが突然嫌になるという。それが男を取り替える理由だという。自由奔放な生き方をしているナツを、モモコは口にこそしないがうらやましく思っている。
「そう見えるわ」とナツは答えた。
「どこで分かる?」
「どこで、顔に書いてある」
「そう……やっぱり」とため息をついた。
モモコは困ると不思議な微笑を浮かべる。その微笑の意味を知っているナツは、
「どうしたのよ。今日のモモコは変だぞ」
「最近気づいたの。自分は変だって。夫に愛人がいるの。そして二人の間に子供ができたの。それに気づいても、何も怒らない自分に驚いている。寧ろ、これで安田家の血筋が途絶えずにすんだとほっとしている」
「あんたはつくづく馬鹿ね。呆れた……私だったら、そんな夫の横っ面を引っ叩いて、直ぐに離婚する」
「そうね、ナツなら、そうするね」とモモコはくすっと笑った。
「でも、私はずっと子供を作らないといけないと思っていたから、何だか肩の荷が下りたようで、ほっとしているの。最近、夫は家に戻らないの。たぶん、愛人のマンションに入り浸りだと思うけど」
「あなたはそれで幸せなの?」
「それが分からないの。何も考えられないんだから、きっと脳死状態ね」とモモコは微笑んだ。
「そんな生活はちっとも幸せじゃない。たくさん慰謝料をもらって、別れて自由気ままに生きた方がずっとましよ。それとも安田という名前にこだわる理由はあるの?」
「ないわよ、そんなの……」とモモコは言葉を詰まらせた。
今の自分は安田家を飾る一つのひな人形のような存在でしかないことを、モモコは十分知っていた。仮に夫が別れてくれといったなら、素直に受け入れようとも思っている。けれど夫は何も言わない。それは優柔不断な夫の気の弱さを示すのか、それとも他に何か言えないような理由があるのかは分からなかった。ただ時間だけが過ぎていくのだけは事実だった。少しずつ、少しずつ。手のひらから掬った砂がこぼれていくように。
モモコは母の余命が幾何もないと知って、何度も一人で泣いた。そして泣きながら、あれこれ、考えた。母親が死んだら、血のつながりのある人間はいなくなる。そのうえ、夫から離婚されたら、文字どおり、この世で独りぼっちになる。他で女を作り、そのうえ子供までもうけた夫に対する憎しみがないわけではない。それでも、ときたま抱かれるとき、その温もりに中に、何かしら心の安らぎを感じている自分がいることを知っている。全て関係を持たない世界、そこにぽつんと置かれている自分を想像するができない。独りぼっちになるという恐怖感。それが今のモモコの心を満たしている。
「ナツは独りでいることが怖くないの?」
「怖くはないわ……私には犬がいるし、恋人もいる。でも犬はいつか死別する。恋人も去っていく。そんなことは知っている。その場面になったとき、顔がぐしゃぐしゃになるほど泣くけど、それに耐えて生きていく自信はある。何度も経験したから」とナツは笑った。
「羨ましい……」とモモコは微笑んだ。
「羨ましい? 私からすれば、モモコの方がずっと羨ましいわよ。いまだに美人で若々しい。とても四十歳には見えない。二十歳後半とさばを読んでも誰も分からないわよ」
「それは幾らなんでも褒めすぎよ」
「そんなことはないわよ。私なんか、長年のタバコと酒のせいで肌はボロボロ、そして声はガラガラ。どんな厚化粧しても、老化は誤魔化せない。あなたが羨ましい。まるで大理石の肌のよう……」とモモコの顔をそっと撫ぜる。
「その美しさがあれば、あなたは今からでもやり直せる。たくさん慰謝料をもらってやり直しなさいよ。金さえあれば、何でもできる。私もお金が欲しいけど、あるのは借金だけ。借金があるのは、今の恋人にも言ってないの。言ったら、その額を聞いて腰を抜かすから」と笑った。
ナツをあらためて羨ましいと思った。笑うときも泣くとも声を上げる。行きたいところはとことん行く。誰も彼女を遮ることも縛り付けることもできない。天衣無縫ともいえるような生き方をしている。自分に実に素直な生き方をしている。
「どうやったら、ナツのように生きられる?」
「簡単よ、好きなことをして、嫌いなことをしない。自分の気持ちに素直になることよ」
「好きなことをするか……」
「そう好きなことをすればいいの。男に抱かれたいと思ったら、抱かれればいいの……そうだ、ぜんぜん関係ない話だけど、一か月、犬を預かってくれない?」
「犬? 犬って、このブルドックのこと、一ヶ月も!」
「そう、このブルドックよ。実を言うと、今度、彼と旅をするの。このブルドック、モモコにも懐いているから。ちょうどいい気分転換になるわよ。もし気に入ったら、あげてもいいわよ。実をいうと、今の彼は犬嫌いなの。だから絶対に家には来ないのよ。犬も彼氏も両方とも好きだけど、今は少しだけ彼氏の方にメロメロなの」とナツが照れた。
ブルドックの面倒みるようになって、生活が一変した。ブルドックの中心の生活になったのである。
モモコはブルドックを可愛がった。ブルドックはあまり吠えない。撫ぜると目を細め、すぐ腹を見せる。何ともかわいらしい。手を出すと手を舐める。お腹が空くと、早くご飯とを頂戴と足に纏わり付く。
作品名:カオリとトモコ~それぞれの道~ 作家名:楡井英夫