メトロポリタン美術館
しかし、果てしなく続く華やかなパレードにも次第に飽きが来始めていた。
私はどうしても一人になりたいという気持ちになり、クラゲのいた浜辺に向かった。
私が一人で座っていると、ふと何か思い出せないものがある事に気づいた。
どうしても思い出せない。何か大切な事を忘れているはずなのに……
少し経って、男の子が近寄ってきた。
「どうしたの?ここには何でも揃っているよ。もっと遊ぼうよ。」
「うん、でも……」
私は自分の気持ちを言葉にできず、悶々としていた。
男の子が何か言おうとした次の瞬間、突然大きな地鳴りがした。
「ゴォォォッ!!!」
地面は揺れていない。でも音はとてつもなく大きい。
その音は一定のリズムで、まるで鳴り止む気配がない。もっとおかしいのは、それが地面からでは無く、空から聞こえているという事!
「な、なんだ!」
初めて男の子が困惑した表情をした。これは予想外の出来事なのだろうか。
もしや、この世界が壊れてしまうのだろうか。
――そう思った瞬間、世界の中に「歪み」が生じた。
空に大きな穴が空いたのだ。穴の境界はグラグラと揺れていて定まっていない。
私はその時、初めて「現実世界」の存在を思い出した。
「帰らなくちゃ!!」
私は一目散にバーコードを空に巡らせて、穴の傍まで行き、勢いよく穴に飛び込んだ!
「ま、待って!」
後ろで男の子の声がする。でも私の衝動は収まらなかった。
穴に入った瞬間、加速度的にスピードが上昇し、穴の中を突き進む。
穴の中は明るくて、何か色んなものが流れているが、私の進むスピードが速すぎて見えない。
私は地鳴りのような音がする方向に進んでいた。しかしその反対側、私の後方からも何か別の大きな音が聞こえた。
いや、これは声、怒鳴り声だ!
「まてえええええええええ!」
後ろを振り返ると、男の子がすごい形相で私を追っかけていた。その顔はもう天使なんかじゃない。悪魔そのものである。
その悪魔は一気に私に追いつき、顔が歪むほど大きな口を開けて、私の足の先にかぶりついた。
「痛い!」
私が足を抜くと、靴だけが取れて悪魔を少し引き離した。赤い靴下の先が破れて血が出ていた。
私は向き直り、大慌てでスピードが上がる事を願った。
するとスピードがどんどん上がり、風の抵抗で顔が痛くなるほどスピードが上がった。
「まてえええええええええ!」
後ろでは悪魔がものすごい形相で追いかけてくる。私は夢中で逃げた。
こんなに怖いのは初めてだった。私は食べられてしまうの?
涙を流しながら、私は祈るようなポーズを取り、風の抵抗を必死に受けて猛スピードの中進んでいた。
「出口はまだなの!?」
そう思うと、遥か先に出口と見られる穴が見えた!あと10秒もすれば辿りつく。
「よし!いける!」と思った次の瞬間、
あ そ ぼ
――とても優しい声がした。風の音が消え、静寂が辺りを包んだ。
振り返ると、悪魔の顔が元の天使の顔になっていた。私はひるんで、スピードを落としてしまった。
それを見逃さなかった天使は、すぐさま悪魔の形相に変わり、一瞬で私に追いついた。
大口を開けた悪魔は、今度は左足の膝辺りまで噛み付いた。
「ああっ!!!」
私は完全にスピードを殺され、あわや止まってしまうまでになった。
すると、近くまで来ていた出口が遠ざかっていった。
「もうだめだ、逃げられない……」
と言うと、出口も閉じてしまった。
私は肩を落として全てを諦めた。
しかし、そこで私はハッと気づいた。
「諦めたら出口が消えた?……もしかして……」
私の疑問はすぐ確信に変わった。
「そうだ!ここは絵の中なんかじゃない!何でも思い通りになる、私の夢の中だ!」
私は悪魔の方をキッと睨み、大声で怒鳴った。
「そんなに私の靴下が好きならあげるわ!」
私は、履いている赤い靴下が激しく燃えるイメージを作り上げた。
すると私の足にかぶりついていた悪魔の口の中から、物凄い炎が溢れてきた。その炎はみるみる悪魔の全身を焼き尽くした。
「ギャアアアアアアアアアアア!」
悪魔は後方に吹き飛び、のたうち回りながら消滅した。
私は向き直り、現実世界に帰りたいと強く願った。
するとさっきまで消えていた出口がまた現れた。
私はスピードを上げてその穴を突っ切った。まばゆい光が私を包み込んだ――
――気がつくと、私は絵の前で寝転がっていた。
傷ついていたはずの左足は何ともなく、靴も靴下もちゃんと履いていた。振り返ると、傍にはなんとあのミイラがいた!
「きゃあ!」
私が後ずさりすると、ミイラがしゃべりだした。
「良かった!目覚めたんだね」
「えっ?」
私は何がなんだか分からないままでいた。
「ごめんね、ごめんねぇ。君を驚かそうとしたばっかりに」
ミイラがとても弱々しそうに謝ってきた。
「君が絵の前で倒れていて、いくら呼んでも起きないから心配してたんだ」
「あなたは誰?そうだ!あの天使は!?」
「もう動かないよ」
天使の像は不気味な笑みを浮かべていたが、確かに動いていなかった。
ふと私は、ミイラがその手に私の目覚まし時計を持っている事に気づいた。
「君が落としたバッグの中に目覚まし時計があったから、君の耳元で鳴らしたんだ。そうしたら起きると思って」
あの空から鳴っていた地鳴りのような音は、目覚まし時計のアラームの音だったのだ。
「ありがとう、ミイラさん!」
私は包帯だらけのミイラに抱きついた。このミイラは私の命の恩人だ。
「お礼なんていらないよ。だって僕は君のかけがえの無い友達だからさ」
「えっ?あなた、もしかして……」
彼は頷いた。
「そう、ネッドだよ。君を驚かす為に、ミイラに乗り移ったんだけど、まさか天使の像まで動き出すなんて……」
「ホントに、ホントにネッドなの!?」
私は泣き出した。もう会えるなんて思っていなかった。
「ごめんね、僕も君に会いたくて、どうにかして会える手段を探していたんだ」
私はもう驚かされた事なんてどうでもよくて、ただ湧き上がる感情に身を任せて泣いた。
――暫くして泣き止んだ後、ネッドが話し始めた。
「本当は死んだ人が生きた人に会うなんてよくない事さ。僕は行かなくちゃいけない」
「……うん、そうだね……」
ネッドがまたいなくなるのは嫌だったけど、あんな事もあってか、素直に現実世界を受け容れる事を考えるようになっていた。
「この天使さんも寂しかったのかもしれない」
私はふと、そんな言葉を呟いていた。
「君はひどい目にあったんじゃないの?」
「うん。確かにそうだけど、この天使さんも孤独だったんだと思うの。」
「どうしてそう思うんだい?」
「だって私と居る時には、私を食べようとしなかったもの。
私と一緒にいる事をただ楽しんでいたの」
私はおもむろに左足の靴下を脱いで、天使の像の前に置いた。
「赤い靴下でよければ、かたっぽあげる」
作品名:メトロポリタン美術館 作家名:ユリイカ