峰
その女と出会ったのは、もう部活も引退してからのことだった。
ふと暇つぶしがてらに部室に立ち寄った時、彼女はそこに居た。いつから居たのか、とか、そんなことは覚えていない。……否、知らない、と言った方が正しかっただろうか。顔立ちはもうぼやけていて思い出せないけれど、そこそこ良かった気がする。ともかく、彼女はいつのまにかその場所に居た。
名前は……何と言ったのだろう。覚えているのは、ただ私が彼女のことを「峰」と呼んでいたということだった。多分苗字の一文字から取ったのだろう。もしくは、もっと別の。そう、煙草の『峰』からとったのかもしれない。なぜなら記憶の中の彼の纏っていた香りは、あの『峰』の香りそのものだったからだ。
ともかく、出会いはごく平凡なものだった。
部活の先輩であった私が顔出しをしたら、彼女に出会った。それだけのものだ。
最初の頃は峰は別の子と話をしていたり、部活に精を出していたりして話す機会はほとんどなかった。峰はあまり話したがる方ではなかったように思えるし、単に先輩である私と話す気がなかったのかもしれない。私自身も他の後輩と話をすることの方が多く、自分から峰に話し掛けようとは思っていなかった。
けれど、ある日私が部室に行くとそこに居たのは峰一人で、後輩を待つ間にと気紛れに話しかけてみると意外や意外、中々に峰は面白い子だったのだ。
その日以来、気がつけば放課後は「峰」と会う時間になっていた。
もとより人数の少ない部活は、一体いつの時代の先輩が決めたのやら週5日も合ったのだけれど、大抵が幽霊部員や別の部と兼ねている子ばかりで。私が部室に行くたび、そこに居るのは大方が峰1人か、もしくはほんの数人の後輩だけだった。
正確に言えば、私が峰と話したかった為に他の部員がいなそうな曜日を選んでいたせいもある。
記憶の中の峰は、私が行くといつも何かしらの本を読んでいた。それは時としてファンタジー小説だったり、文庫本だったり、洋書の時もあれば哲学書の時もあった。ともかく趣味が一貫していなくて、一度だけ経済誌を読んでいたことがあったことは今でもはっきり思い出せる。
「それ、面白い? 」
「そう思いますか?先輩」
彼女の向かい側の席に座って尋ねてみる。私としては、単なる日常会話程度の意味合いで聞いてみたまでだ。けれど、まさかこんな切り返しをされるとは露にも思っておらず驚いてしまう。
(それまでの峰との会話を思い出せば、有り得たのかも知れないが)
そんなことを聞かれても、覗き込んで見える頁や本の装丁から私の読んだことのある本ではないように思えるし。
困った。全然答えが思いつかない。
私は懸命に返答を考えた。けれど、やはり思い浮かばない。峰は、と言うと特にそれ以上の言葉を投げかけることもなく、私を焦げ茶色の瞳でじっと見つめていた。
暫くの間、そうして沈黙が続く。と、彼女はふっと密やかな笑いを漏らす。
決して私を小馬鹿にしたり、というものではない、けれど真意の解らない笑み。
「峰? 」
「ごめんなさい、先輩。冗談ですよ」
私は思わず、峰のことを呼んだ。するとその笑みは、いつのまにかごく普通の少女の零す柔らかく可愛らしいものへと変化していた。
私はどう反応すればいいのか解らなくて、ただ峰が小さくくすくすと鈴を転がしたような笑い声に合わせて、笑った。
その笑みはきっと当時の私なんかでは真似できるようなものではなく、きっと今であっても私には似合わないものなのだろう。
峰は、私の持っていないものを持っていた。
例えばそう言った大人の女性がするような笑い方だとか、落ち着いた雰囲気だとか。それを目にするたびに、純粋な羨ましさと、妬ましさを覚える。
いや、羨ましいという感情も純粋なものだと思い込んでいただけかもしれない。詰まる所、私は一つ年下の彼女に嫉妬していたのだろう。
その感情を彼女に抱いていたのは私だけではなかったらしく、時折他の後輩が、そんな感情の篭った視線を峰に向けていたことに私は気づいていた。きっと峰も気がついていたのだろう。けれど、それを口に出したことは無かった。
彼女と交わした言葉は今はもう、殆ど覚えていない。
確かなことは、あのアーティストはいいよね、とか、デパートのショウ・ウィンドウに飾られているあの服は可愛いとか。女子高校生らしいような、何組の誰が格好いいとかモテるとか、今考えると少し甘酸っぱい話題が私たちの間に上ったことは一度たりともなかった、ということだ。
なら、一体どんな話をしていたのか、と言えば思い出せないのだけれど。
今思えば、彼女との会話自体に意味なんてものはなかったのだ。
ただ、あの聡明で可愛らしい峰が傍に居る。それだけで、私は十分だったし、それ以上のものなんて要らなかったのだから。
峰の家に、私が遊びに行ったことがある。
峰の両親は共働きで、峰は一人っ子らしく同じ境遇の私はそのことに対してどこか親近感を覚えたものだ。
彼女に促されるように、部屋の中央のテーブルの合い向かいに置かれた座布団に座ると峰が紅茶を運んできてくれた。
暫く他愛も無い会話をしていると、ふと峰がおもむろにベッド脇のサイドテーブルの引き出しを開く。一体なんだろうか、と特に深くは気には留めていなかったのだけれど、彼女が取り出した物を見て私はぎょっとしてしまった。
彼女が取り出したのは、煙草と、その辺で売っているような陳腐なライターだった。
あまりの突然のことに驚き、言葉を失ってしまっている私を尻目に峰は窓を開けると1人煙草を吸い始める。
中身が減り、無造作にサイドテーブルに置かれた銀色の箱。毛筆で大きく『峰』と書かれているそれは、その概観も、峰の手元から薫ってくる匂いもまさに「峰」のイメージそのもので。
学生が煙草を吸うなんて、とか。それがいけないことだとか、そんなことを思うよりも先に、私はただその峰の手馴れた仕草に見惚れてしまっていた。
「失望しましたか? 」
その私の凝視するような視線に小さく苦笑いを漏らすと、峰はそう尋ねてきた。
「して、ないけど……びっくりした」
「そうですか」
そう素直に感想を返すと、峰はまた苦笑して。それでもどこか嬉しそうに煙草の灰をいつの間にか取り出したのか、携帯用の灰皿へと落とす。
「名前と一緒なんだね」
「はい。だから、好きなんです」
そう言って、峰は微笑む。そうして暫くして煙草が短くなると、灰皿へとぐりぐりと押し付けて峰は煙草とライターを再び元あった場所へとしまった。
「一日一本って決めてるんです」
「どうして? 」
「その方が、美味しいと感じると思いません? 」
あの日、私が問い掛けた時と同じように峰は私に尋ねた。その顔に浮かぶ表情は、あの時のものと寸分も違わないもので。
やはり何の反応も出来ない私に視線を送りながら、峰は生温くなった紅茶を口に運ぶ。
ふと暇つぶしがてらに部室に立ち寄った時、彼女はそこに居た。いつから居たのか、とか、そんなことは覚えていない。……否、知らない、と言った方が正しかっただろうか。顔立ちはもうぼやけていて思い出せないけれど、そこそこ良かった気がする。ともかく、彼女はいつのまにかその場所に居た。
名前は……何と言ったのだろう。覚えているのは、ただ私が彼女のことを「峰」と呼んでいたということだった。多分苗字の一文字から取ったのだろう。もしくは、もっと別の。そう、煙草の『峰』からとったのかもしれない。なぜなら記憶の中の彼の纏っていた香りは、あの『峰』の香りそのものだったからだ。
ともかく、出会いはごく平凡なものだった。
部活の先輩であった私が顔出しをしたら、彼女に出会った。それだけのものだ。
最初の頃は峰は別の子と話をしていたり、部活に精を出していたりして話す機会はほとんどなかった。峰はあまり話したがる方ではなかったように思えるし、単に先輩である私と話す気がなかったのかもしれない。私自身も他の後輩と話をすることの方が多く、自分から峰に話し掛けようとは思っていなかった。
けれど、ある日私が部室に行くとそこに居たのは峰一人で、後輩を待つ間にと気紛れに話しかけてみると意外や意外、中々に峰は面白い子だったのだ。
その日以来、気がつけば放課後は「峰」と会う時間になっていた。
もとより人数の少ない部活は、一体いつの時代の先輩が決めたのやら週5日も合ったのだけれど、大抵が幽霊部員や別の部と兼ねている子ばかりで。私が部室に行くたび、そこに居るのは大方が峰1人か、もしくはほんの数人の後輩だけだった。
正確に言えば、私が峰と話したかった為に他の部員がいなそうな曜日を選んでいたせいもある。
記憶の中の峰は、私が行くといつも何かしらの本を読んでいた。それは時としてファンタジー小説だったり、文庫本だったり、洋書の時もあれば哲学書の時もあった。ともかく趣味が一貫していなくて、一度だけ経済誌を読んでいたことがあったことは今でもはっきり思い出せる。
「それ、面白い? 」
「そう思いますか?先輩」
彼女の向かい側の席に座って尋ねてみる。私としては、単なる日常会話程度の意味合いで聞いてみたまでだ。けれど、まさかこんな切り返しをされるとは露にも思っておらず驚いてしまう。
(それまでの峰との会話を思い出せば、有り得たのかも知れないが)
そんなことを聞かれても、覗き込んで見える頁や本の装丁から私の読んだことのある本ではないように思えるし。
困った。全然答えが思いつかない。
私は懸命に返答を考えた。けれど、やはり思い浮かばない。峰は、と言うと特にそれ以上の言葉を投げかけることもなく、私を焦げ茶色の瞳でじっと見つめていた。
暫くの間、そうして沈黙が続く。と、彼女はふっと密やかな笑いを漏らす。
決して私を小馬鹿にしたり、というものではない、けれど真意の解らない笑み。
「峰? 」
「ごめんなさい、先輩。冗談ですよ」
私は思わず、峰のことを呼んだ。するとその笑みは、いつのまにかごく普通の少女の零す柔らかく可愛らしいものへと変化していた。
私はどう反応すればいいのか解らなくて、ただ峰が小さくくすくすと鈴を転がしたような笑い声に合わせて、笑った。
その笑みはきっと当時の私なんかでは真似できるようなものではなく、きっと今であっても私には似合わないものなのだろう。
峰は、私の持っていないものを持っていた。
例えばそう言った大人の女性がするような笑い方だとか、落ち着いた雰囲気だとか。それを目にするたびに、純粋な羨ましさと、妬ましさを覚える。
いや、羨ましいという感情も純粋なものだと思い込んでいただけかもしれない。詰まる所、私は一つ年下の彼女に嫉妬していたのだろう。
その感情を彼女に抱いていたのは私だけではなかったらしく、時折他の後輩が、そんな感情の篭った視線を峰に向けていたことに私は気づいていた。きっと峰も気がついていたのだろう。けれど、それを口に出したことは無かった。
彼女と交わした言葉は今はもう、殆ど覚えていない。
確かなことは、あのアーティストはいいよね、とか、デパートのショウ・ウィンドウに飾られているあの服は可愛いとか。女子高校生らしいような、何組の誰が格好いいとかモテるとか、今考えると少し甘酸っぱい話題が私たちの間に上ったことは一度たりともなかった、ということだ。
なら、一体どんな話をしていたのか、と言えば思い出せないのだけれど。
今思えば、彼女との会話自体に意味なんてものはなかったのだ。
ただ、あの聡明で可愛らしい峰が傍に居る。それだけで、私は十分だったし、それ以上のものなんて要らなかったのだから。
峰の家に、私が遊びに行ったことがある。
峰の両親は共働きで、峰は一人っ子らしく同じ境遇の私はそのことに対してどこか親近感を覚えたものだ。
彼女に促されるように、部屋の中央のテーブルの合い向かいに置かれた座布団に座ると峰が紅茶を運んできてくれた。
暫く他愛も無い会話をしていると、ふと峰がおもむろにベッド脇のサイドテーブルの引き出しを開く。一体なんだろうか、と特に深くは気には留めていなかったのだけれど、彼女が取り出した物を見て私はぎょっとしてしまった。
彼女が取り出したのは、煙草と、その辺で売っているような陳腐なライターだった。
あまりの突然のことに驚き、言葉を失ってしまっている私を尻目に峰は窓を開けると1人煙草を吸い始める。
中身が減り、無造作にサイドテーブルに置かれた銀色の箱。毛筆で大きく『峰』と書かれているそれは、その概観も、峰の手元から薫ってくる匂いもまさに「峰」のイメージそのもので。
学生が煙草を吸うなんて、とか。それがいけないことだとか、そんなことを思うよりも先に、私はただその峰の手馴れた仕草に見惚れてしまっていた。
「失望しましたか? 」
その私の凝視するような視線に小さく苦笑いを漏らすと、峰はそう尋ねてきた。
「して、ないけど……びっくりした」
「そうですか」
そう素直に感想を返すと、峰はまた苦笑して。それでもどこか嬉しそうに煙草の灰をいつの間にか取り出したのか、携帯用の灰皿へと落とす。
「名前と一緒なんだね」
「はい。だから、好きなんです」
そう言って、峰は微笑む。そうして暫くして煙草が短くなると、灰皿へとぐりぐりと押し付けて峰は煙草とライターを再び元あった場所へとしまった。
「一日一本って決めてるんです」
「どうして? 」
「その方が、美味しいと感じると思いません? 」
あの日、私が問い掛けた時と同じように峰は私に尋ねた。その顔に浮かぶ表情は、あの時のものと寸分も違わないもので。
やはり何の反応も出来ない私に視線を送りながら、峰は生温くなった紅茶を口に運ぶ。