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天秦甘栗  夢路遠路4

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秦海が、とあるレセプションに出席する前に、仕事関係の知人から『どうも最近、河之内の台頭がはなはなだしい。彼は以前からは考えられないほどのパワーを身に付けている。』 と、いう噂が流れてきた。それを聞いた秦海は嬉しくなってしまった。そのことを思い出して、移動の車中でひとりニヤついていると、それを目敏く見付けた川尻が、コホンとひとつ咳払いをした。車中は秦海と秘書のふたりきりである。
「社長、先程の電話で楽しい情報が入ったようですね。仕事のことでしたら、私くしにも教えて頂かないと…それとも、プライベートですか?」
 そこで秦海は、うーんと考え込んだ。
「……うーん、フィフティ・フィフティな話だな。最近、河之内が伸びてきたから注意しろというお達しだったんだがな、俺はその話を聞いて嬉しくてな。」
 ここで天宮なら、『なあーんでやねん。』と、突っ込みが入るのだが、秘書である川尻はそんなことはしない。黙って、続きを待つ。
「…河之内の変化は、天宮と深町さんの指導のたまものだ。」
「なるほど……確かに『懲りない男』が完全に懲りている様子ですからね。人格崩壊を起こしたわけですか。」
 川尻の言葉に、意外そうに秦海は、彼の顔を見た。そして軽く頭を横に振った。それを見て、川尻は、「おや、失言でしたか、社長。」 と、悪びれる様子もなく告げた。
「天宮のしごきで、度胸と根性がそなわった。そして、深町さんの指導で、体力と自然の摂理を身をもって学んだだろう。それが、河之内にビジネス界でのカリスマ性を与えている。ビジネス界では学ばないものを河之内は知ってしまったからな。ひとまわり人間が大きくなったんだろう。」
 そこで、若社長は一端言葉を切ってから続けた。
「まあ、河之内が伸びるのはここまでだ。俺の足元には程遠いがな。」
 秦海の豪語は普段からのことだが、川尻は、オヤオヤと言った風情で微笑んだ。この社長のこわいところは、それが真実であることだろう。秦海が単なる大財閥の二代目なら、秦海財閥は停滞していただろうが、現在の状況は確実に拡大している。確かに秦海は並の二代目ではないが、自分でそれを言える人間はなかなかいないはずである。
「…俺が、ここまでやってこれたのは、天宮に認められたかったからだ。まあ、それだけじゃないが、比率的にはかなり占めている。河之内は与えられる情報しか手にいれていない。俺は、さらに努力して天宮に認めさせた。その差は大きいだろ? 川尻。」
「確かに。奥方は並の方ではございませんからね。」
「川尻は、天宮のこととなるとベタぼめだな。」
 本当に嬉しそうに秦海はそう言った。『並じゃない』の意味がたくさんあることを社長は忘れているんだろうな、と川尻もそのまま笑っておくことにした。
 車がレセプション会場のホテルに到着した。玄関でボーイがドアを開けてくれる。秦海が降りると、その前で河之内が立っていた。以前なら、こんなに堂々と対面することなどなかった。河之内のほうが避けていたし、もし会ったとしても形式的な挨拶をぼそぼそと交わす程度であった。河之内は秦海に軽く手を差し出して握手を求めた。
「やあ、今日は出席だと聞いたので待っていたよ、秦海。」
「おお、河之内。いつも、妻の遊び相手をしてもらって感謝している。体調は良さそうだな。」
「ああ、良好だ。川尻さん、天宮家でお会いして以来ですね。」
 河之内は川尻にも握手を求めた。川尻もにこやかにその彼の手を握り返した。
「お噂は聞いておりますよ。ご活躍らしいですね。」
「いえいえ、とんでもない。まあ、確かにあなたと握手できる勇気はできたようですね。」
 その言葉に、事情を知らない秦海は不思議そうな顔をして、川尻はニヤリと河之内に笑い返した。
「今週は、君の奥様とは行き違いになりそうだ。ゴルフが入っているので、日曜の夜から天宮家に行く予定だ。」
「そうか、ところで川尻に噛み付かれでもしたのか。こいつにそういう悪癖があるとは知らなかったが…」
 それを聞いて、河之内は吹き出した。つられて川尻も肩を震わせて、こみあげてくる笑いを我慢している。
「いや、俺も噛まれてはいない。じゃ、会場まで歩きながら説明するよ。」 若いトップは並んで歩き出した。背後から、秘書が続く。川尻は、ふたりの背を見ながら、天宮たちの河之内に対する教育を想像しながら、やっぱり懲りすぎて人格が変貌したのだと思った。
 しばし談笑していたふたりのうち、秦海がくるりと振り返って、『趣味が広いのはいいが、俺の妻はいかんぞ、川尻。』 と、冗談まじりに本気で注意した。やはり、うちの社長は大物だと川尻は、『はいはい』と言いながら後に続いた。

 

 日曜の夕刻、食事を終えた天宮と深町は、テレビの前でころがっていた。
「どうして、F-1ってさあ。社会人には辛い時間にするんかねぇ、えりどん。」
「散髪屋さんは喜んでると思うけどなあ…あと、月曜日が休みのスーパーの人とか……」
 深町は天宮のあげあしをとってケタケタと笑った。ケーッっと唸りながら、天宮は隣の深町の背中に蹴りを入れた。すかさず、その足を深町がとって、関節技をしかける。見事な応酬なのではあるが、ふたりとも寝転んだまま闘っているので、たいして真剣味が見当たらない。寝たままの格闘が続いていると、テレビは11時からの番組を始めた。そろそろ、天宮のご帰還時間である。
「ぼちぼち帰らんと、F-1のオープニングに間に合わんのとちゃうか?」
「たるいなあ…帰んの……」
 天宮家のふたりの当主がのほほんと過ごしている頃、河之内は夜道を鼻歌を歌いながら飛ばしていた。ふと、街灯のない山道を走っていて、鼻歌が止まった。天宮家に行くのが、こんなに心ときめいている自分がおかしかった。最初の頃が夢のようである。直線的な都会の道路と勝手が違って、ヒイヒイ言って泣き泣き天宮家に通っていた頃は、毎回地獄に向かう亡者のようであった。しかし、いつの頃からか、ここに来ることでストレスが流されていくのが目に見えて分かった。友人の天満が、「ここの良さがわかれば、おまえも変わるだろう。」 と、言ったことが今は、よくわかる。確かに、自分は変わったと思う。汚いと思っていた川の清水を飲んでみたり、夏には泳いでみたりする。天宮家を知る以前の自分なら、死んでも嫌だと思っただろう。ならば、なぜ、自分は変わったか……それを河之内が自らを分析してみるならば、陳腐な言い方ではあるが、大自然と自分の大きさの違いをまざまざと感じたからだろうと思う。天宮家にいると、緑の中にぽつんと自分がいることがよくある。畑の開墾を命じられた時も、一日自分が広げた畑の広さに絶望しそうになった。そう、自分という人間がとても小さくまとまっていたことがわかったのである。それまで、自分は経済界で一端のエリートだと自負していた河之内には驚くべき事実であった。そんな小さな自分が経済界をいつか牛耳る力を手に入れようとしていたことが、なんと情けないことかと嘆きもした。そんな大きな野望抱くには、自分という人間は無知であったのである。その事実を受け入れた河之内は変わった。
作品名:天秦甘栗  夢路遠路4 作家名:篠義