天秦甘栗 夢路遠路3
深町は朝から畑に出て、朝の味噌汁にいれる野菜をとっていた。まだ朝露がついたままのほうれん草や大根の葉はキラキラと光っている。この家の当主はまだまだ起きないので、ついでに草取りをして水やりをする。この成果がすぐに現れるので、深町は畑にやりがいを感じている。
「…あとこれで、歩いてすぐに海があったら言うことないんけどなあ。」
朝食の席で深町は、目の前でボーッっと寝ぼけながら食卓についている天宮にそう言った。奥深い山野で、側に清流が流れ、適当な広さの畑を所有している天宮家に平日ひとりでいる深町は、たったひとつだけ不満がある。それは海である。天宮の楽園計画の最初から携わっていた深町であるが、場所選びの段階で妥協してしまったのが、海である。大都会の近く(天宮の通勤圏という意味の近くだけど)の海べりとなると開発が進んでいたり海が汚染されていて理想の場所には程遠かった。仕方なく、ふたりは海べりという条件を却下したのである。そもそもふたりともが海のない場所で育ったので、憧れていたのだ。
「…だってなあ、お魚は新鮮で安いし、釣れるのは魚だけとは限らんし…」
新鮮な魚をたらふく食いたいという小さな夢は、ふたりとも抱いていたのだが、度合いは深町のほうが大きかったようで、今でも口にする。
「………でもな、えりどん。海はすぐ近いとおもうよ。」
半覚醒の天宮は反論した。愛車ぱーちゃんに飛び乗れば三十分も走れば、割りときれいな海に出ることができる。ただし、あくまで天宮が走る時の時間で、通常は一時間くらいである。
「そらな、天宮はええよ。車乗れるからな。でも、わたしはペーパードライバーやもん。歩いて行ける距離に欲しいんや。」
深町の夢はほとんどない。それほど望むこともないし、毎日をのんびりと暮らしていければそれで文句はないらしい。憧れることはあっても、それを実現させようとしゃかりきになる気はない。高望みすることもないし、物欲も自分の稼ぐ範囲で十分に満たしている。そういう深町だからこそ、こんな山奥の家の管理人をしているのである。普通の人間には耐えられないだろう。 朝食を食べ始めて、深町はふと悪いことを思い付いた。いやな笑い方やなあ、と天宮は少々ひきつつ、『どうしたん?』と尋ねた。
「あのさ、秦海さんに『海』をここへ持ってきてくれるように頼んだらどないやろうかと思ってな。天宮の大弱点教えるって言うたら、その返しに『海』をここまで届けてくれんじゃろうか。ウケケケケケ…」
それを聞いて、天宮は飲みかけていた味噌汁を吹き出しそうになって、「ウゲゲゲ…」 と、喉をならした。こいつならやりかねん、ということを身を持って知らされている天宮は手を振った。
「やめーっ! おとろしいことおもいつくなあ…そんなことしたら、畑をぱーちゃんで走るで!」
「それさあ、あたしより河之内が死ぬとおもうんやけど…」
「…とりあえず、秦海にそういうことを頼むのはやめて、本気であいつはやる可能性が高い……」
つきあいの長い天宮は秦海の底力のおそろしさも知っている。もし、本当に深町がこの条件を出したら、彼は海までの土地を買い占めて、その土地を海岸線と同じ高さにならして、北欧のフィヨルドを再現するであろう。秦海とはそういうことのできる奴である。深町もちょっと想像してこわくなった。その費用だけで、小さな国の国家予算に達するであろうことは明白である。
「しゃれにならんて……この家のローンが終わったら、もうちょっと足のばしたところに別宅持つということで手をうってもらえん?」
「それ…あと何年か先のことやね。」
「そうやなあ、十年と少しくらいかなあ。」
天宮の妥協案は、あくまで深町がそれまで管理人で住んでいることを前提にしている。だから、半分は冗談である。それは深町もわかっている。自分が結婚する相手が海べりの人なら、この問題は簡単に解決するのだ。それに、深町は、万一『海』が側にきたとしても、その事実を受け入れるだけで夢が実現したと感動しないと自分でもおもう。深町はすでに自分が夢を越えてしまったのかなあとおもうこともある。生活はけっして便利ではないところだが、それでも自分のサイクルでなんでもできるここが、深町には夢を越えた場所なのかもしれない。
「まあ、気長に待ってるから働いてや、あまみや。」
悪魔から普通の笑いに戻って、深町は答えた。天宮も、うんとうなずいて食事の続きにとりかかる。
「今日は天気いいから、買い出しがてらに海まで行ってサザエでも買おうこようか?」
食事の終りかけに天宮はそう言って、ころりと横になった。深町は、「せやな。」 と、言いつつ立ち上がると、「言いながら寝んな!」と天宮を蹴り起こした。
「痛いなあ、…そういえば河之内は来るの?」
「明日の夕方からあさってにかけて農作業に来るってさ。土、日共にゴルフ接待らしいで。なんでもいいから、起きて服着替え!」
ころころと畳の上でころがっている天宮を今度はムギューと天宮が鳴くほどに踏んで、深町は食卓をかたしはじめた。
後日談
天宮が、秦海邸に戻った夜に、秦海とお茶を飲みながら、昨日の深町との会話の『海』を届けるという冗談を秦海に聞かせた。すると、彼は、「それは無理だけど、新鮮な魚くらいなら…」と笑って、その日の話はそれで終わった。
二日後、その会話をすっかり忘れていた天宮は、職場に深町から連絡を受けて驚いた。
「なにえ! 緊急か? 」
「…そら、緊急やわ。」
その日、深町がいつものように着物の仕事をしていると、玄関に宅急便の車が止まった。通販が届いたとおもった深町が、印鑑をもって出て行くと、そこには一メートルはあろうかという生マグロが鎮座していた。相手はやはり、宅配の人で秦海から毎日こちらに新鮮な魚を届けるようにと連絡を受けていると言って、生マグロを置いて帰ってしまったのだ。家事に精通した深町ではあるが、一メートルの魚なんぞさばく以前の問題である。近くに魚屋でもあればいいのだが、いかんせん山奥にそんなものはない。ほっておくと腐る代物なので、慌てて天宮に連絡してきたらしい。
「あたしはなあ、海は届けてほしいと言うたし新鮮な魚食いたいとも言うたけど、これはないじゃろう? あまみやあ」
「……きのこ屋のおばちゃんに連絡して解体手伝ってもらって、村に配るしかないのでは、えりどん。」
「……そうやな、やっぱりそれしかないなあ。ちょっと、説教しといてや、天宮。」
「…自分でしいな!」
こらーっと叫んでいる深町の声を聞きつつ、さっさと天宮は受話器を置いた。やっぱり、秦海には何か勘違いがあると天宮はどっと疲れてしまった。 夕刻、秦海の帰宅を待って、天宮が今日のマグロはなんだと尋ねた。情報が早いなあと秦海はハハハ…と笑った。
「笑いごとじゃない。一メートルの魚なんか入る冷蔵庫がどこにあんの? えっ、秦海。それにひとりもんのとこに、そんな大量に送ったら困るってことがわからんか。」
「…トロだけ食べて、後は畑の肥料にでもとおもったんだが…」
「…あとこれで、歩いてすぐに海があったら言うことないんけどなあ。」
朝食の席で深町は、目の前でボーッっと寝ぼけながら食卓についている天宮にそう言った。奥深い山野で、側に清流が流れ、適当な広さの畑を所有している天宮家に平日ひとりでいる深町は、たったひとつだけ不満がある。それは海である。天宮の楽園計画の最初から携わっていた深町であるが、場所選びの段階で妥協してしまったのが、海である。大都会の近く(天宮の通勤圏という意味の近くだけど)の海べりとなると開発が進んでいたり海が汚染されていて理想の場所には程遠かった。仕方なく、ふたりは海べりという条件を却下したのである。そもそもふたりともが海のない場所で育ったので、憧れていたのだ。
「…だってなあ、お魚は新鮮で安いし、釣れるのは魚だけとは限らんし…」
新鮮な魚をたらふく食いたいという小さな夢は、ふたりとも抱いていたのだが、度合いは深町のほうが大きかったようで、今でも口にする。
「………でもな、えりどん。海はすぐ近いとおもうよ。」
半覚醒の天宮は反論した。愛車ぱーちゃんに飛び乗れば三十分も走れば、割りときれいな海に出ることができる。ただし、あくまで天宮が走る時の時間で、通常は一時間くらいである。
「そらな、天宮はええよ。車乗れるからな。でも、わたしはペーパードライバーやもん。歩いて行ける距離に欲しいんや。」
深町の夢はほとんどない。それほど望むこともないし、毎日をのんびりと暮らしていければそれで文句はないらしい。憧れることはあっても、それを実現させようとしゃかりきになる気はない。高望みすることもないし、物欲も自分の稼ぐ範囲で十分に満たしている。そういう深町だからこそ、こんな山奥の家の管理人をしているのである。普通の人間には耐えられないだろう。 朝食を食べ始めて、深町はふと悪いことを思い付いた。いやな笑い方やなあ、と天宮は少々ひきつつ、『どうしたん?』と尋ねた。
「あのさ、秦海さんに『海』をここへ持ってきてくれるように頼んだらどないやろうかと思ってな。天宮の大弱点教えるって言うたら、その返しに『海』をここまで届けてくれんじゃろうか。ウケケケケケ…」
それを聞いて、天宮は飲みかけていた味噌汁を吹き出しそうになって、「ウゲゲゲ…」 と、喉をならした。こいつならやりかねん、ということを身を持って知らされている天宮は手を振った。
「やめーっ! おとろしいことおもいつくなあ…そんなことしたら、畑をぱーちゃんで走るで!」
「それさあ、あたしより河之内が死ぬとおもうんやけど…」
「…とりあえず、秦海にそういうことを頼むのはやめて、本気であいつはやる可能性が高い……」
つきあいの長い天宮は秦海の底力のおそろしさも知っている。もし、本当に深町がこの条件を出したら、彼は海までの土地を買い占めて、その土地を海岸線と同じ高さにならして、北欧のフィヨルドを再現するであろう。秦海とはそういうことのできる奴である。深町もちょっと想像してこわくなった。その費用だけで、小さな国の国家予算に達するであろうことは明白である。
「しゃれにならんて……この家のローンが終わったら、もうちょっと足のばしたところに別宅持つということで手をうってもらえん?」
「それ…あと何年か先のことやね。」
「そうやなあ、十年と少しくらいかなあ。」
天宮の妥協案は、あくまで深町がそれまで管理人で住んでいることを前提にしている。だから、半分は冗談である。それは深町もわかっている。自分が結婚する相手が海べりの人なら、この問題は簡単に解決するのだ。それに、深町は、万一『海』が側にきたとしても、その事実を受け入れるだけで夢が実現したと感動しないと自分でもおもう。深町はすでに自分が夢を越えてしまったのかなあとおもうこともある。生活はけっして便利ではないところだが、それでも自分のサイクルでなんでもできるここが、深町には夢を越えた場所なのかもしれない。
「まあ、気長に待ってるから働いてや、あまみや。」
悪魔から普通の笑いに戻って、深町は答えた。天宮も、うんとうなずいて食事の続きにとりかかる。
「今日は天気いいから、買い出しがてらに海まで行ってサザエでも買おうこようか?」
食事の終りかけに天宮はそう言って、ころりと横になった。深町は、「せやな。」 と、言いつつ立ち上がると、「言いながら寝んな!」と天宮を蹴り起こした。
「痛いなあ、…そういえば河之内は来るの?」
「明日の夕方からあさってにかけて農作業に来るってさ。土、日共にゴルフ接待らしいで。なんでもいいから、起きて服着替え!」
ころころと畳の上でころがっている天宮を今度はムギューと天宮が鳴くほどに踏んで、深町は食卓をかたしはじめた。
後日談
天宮が、秦海邸に戻った夜に、秦海とお茶を飲みながら、昨日の深町との会話の『海』を届けるという冗談を秦海に聞かせた。すると、彼は、「それは無理だけど、新鮮な魚くらいなら…」と笑って、その日の話はそれで終わった。
二日後、その会話をすっかり忘れていた天宮は、職場に深町から連絡を受けて驚いた。
「なにえ! 緊急か? 」
「…そら、緊急やわ。」
その日、深町がいつものように着物の仕事をしていると、玄関に宅急便の車が止まった。通販が届いたとおもった深町が、印鑑をもって出て行くと、そこには一メートルはあろうかという生マグロが鎮座していた。相手はやはり、宅配の人で秦海から毎日こちらに新鮮な魚を届けるようにと連絡を受けていると言って、生マグロを置いて帰ってしまったのだ。家事に精通した深町ではあるが、一メートルの魚なんぞさばく以前の問題である。近くに魚屋でもあればいいのだが、いかんせん山奥にそんなものはない。ほっておくと腐る代物なので、慌てて天宮に連絡してきたらしい。
「あたしはなあ、海は届けてほしいと言うたし新鮮な魚食いたいとも言うたけど、これはないじゃろう? あまみやあ」
「……きのこ屋のおばちゃんに連絡して解体手伝ってもらって、村に配るしかないのでは、えりどん。」
「……そうやな、やっぱりそれしかないなあ。ちょっと、説教しといてや、天宮。」
「…自分でしいな!」
こらーっと叫んでいる深町の声を聞きつつ、さっさと天宮は受話器を置いた。やっぱり、秦海には何か勘違いがあると天宮はどっと疲れてしまった。 夕刻、秦海の帰宅を待って、天宮が今日のマグロはなんだと尋ねた。情報が早いなあと秦海はハハハ…と笑った。
「笑いごとじゃない。一メートルの魚なんか入る冷蔵庫がどこにあんの? えっ、秦海。それにひとりもんのとこに、そんな大量に送ったら困るってことがわからんか。」
「…トロだけ食べて、後は畑の肥料にでもとおもったんだが…」
作品名:天秦甘栗 夢路遠路3 作家名:篠義