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処女航海

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幸せになりたいと叫ぶ。




 表象は
           認知の過程







   脳内   で                    言葉を


           別名、 心的  」



 私知っている。何事にも必死になれない。皆が教授の言葉をノートに書き留めようと、躍起になっているシャープペンの音。全く不規則で、人の耳に優しい。その音の何倍もの音量で話す教授の声は、何故か遠く感じられた。そして私は、この講義室の天井が案外高いことに気づく。


「例えば、―――――――、脳の構造化により―――」


 気づいたら講義が終わる時間になっていた。教授の「それでは、今日はここまで」という台詞だけがはっきり聞こえたので、私は席を立ち、講義室を出ようとした。

「まさか課題出るとはね、」
「図書室で文献を、…」

 誰かの会話が耳に入った。課題が出たらしい。そうかそれはそれは大変だ。下らない。自分の身体の外部環境に急かされるのはやはり御免だと思った。

 私は私の衝動に突き動かされたい。

 私には私のスピードがあるのだから、それをひたすら護りたいと思った。

 普通の歩幅、普通の速度で、生協に立ち寄ったり掲示板を眺めたりしながら、大学の前に設置されたバス停に向かう。バス停は大通りの挟んだ向かいにある。アスファルトを横切る前に、バス停には誰もいないことを確認した。次の講義が始まるチャイムをさっき耳にしたのだった。
 今日はとてもいい天気だ。道路上の剥がれかけた白線を見て、これは元々ずっと白かったのかな、と思った。
 道路の中央線の上くらいで、しゃがんで両の手のひらでアスファルトに触れると、当然のように熱を帯びていた。うん、今日はとてもいい天気。そのまま寝転んでみる。こんなにも天気がよいと何をしたって心地よい。仰向けになると、太陽がまぶしい。きゅっと目を瞑る。自動車が通ったら、私、どうなるんだろう。轢かれるのは嫌だから、物凄く必死で起き上がって道路わきに駆け込むべきだけど、その瞬間の私はそこまで生に貪欲になれるのか。でも轢かれるのは嫌だ。自動車には上手いこと避けてもらいたい。

「お前、」

 何やってるの馬鹿なの、と続いた、聴いたことのある声が降ってきた。視線を彷徨わせると、髪を金(というよりも限りなく白に近い)に染めた派手な男が私を見下ろしていた。

「着いてきたんでしょう」

「どこから気づいてたの」

「生協で、金髪が見えた。やっぱそれ目立つよ」

 そう言ったところで、私は、彼が平然と車道内で屯していることに疑問を感じた。私の傍にいたら、もし車が着たら、轢かれるよ。

「学校の駐車場整備のため、ここ数日閉鎖してるって。だからこの道にはしばらく車は通らないよ」

 どおりで、と納得。元々大学への行き来以外に使われない道路ではあるが、それにしても車が全く通らないことが不思議だった。

「だから、ここで寝てても死ねないよ」

 まぁ、お前は元々死ぬ気なんかないのだろうけど、と男は続けた。寝転んでいる私を見下ろす顔は影が落ちている。無表情の中にある静かな瞳が確認できた。いろんなことを見透かされている気がして、腹が立つ。この男との関係は、あれっきりだと思っていたのに、私達の間には、何か因縁じみたものがあるのではないかと疑ってしまう。
 気だるい動作で体を起こし、そのまま立ち上がった。彼と体が平行になるように向き合う。

「なんで着いてきたの」

「見つけたから。」

「もう何もさせてあげられないよ。」

「期待してないよ。」

 じゃあ、私、あんたの何でもないじゃない。友人、それ以下の知人――それすらも嫌だ。彼の期待していないという言葉が辛辣に感じたが、それで当然だとも思った。

 じゃあかまわないでほうっておいて!!!
 
 何でも良い、何か、言い返さなきゃ

        と、   思った一瞬。

 言いたいことは沢山あるのに喉につっかえて出てこなくて、下手糞な呼吸をした。まるで喘ぐような一息。その一息が、この男と過ごした一晩の出来事を鮮明にさせた。一瞬だった。


 * * *


 私と彼が属するコミュニティーの飲み会――ピーチフィズがとても飲みやすく、注文の回りが早い店だった。アルコールが入った私に近づいてきた派手な金髪の彼――折を見て私の横を取った。
 酒のせいで、私は無防備にも、デリケートな身の上を語った。数ヶ月前、自分から好きになったバイト先の学童にいた男性と付き合うことになった。私は一世一代の熱い告白をした。親切心で受け入れてもらえたみたいだ。けれどその人は、過去にクラスの女子に学校の図書室で襲われたことがあり、それ以来性行為に嫌悪感があるという。そのため、私は彼と寝たことがない。
「始めは、大事にされているのだと思っていた。恋してたし、自分勝手な理由を思い浮かべて、馬鹿みたいだった。けど、単純にしたくないだけだと気づいてから、」
 彼はずっと私を抱かないまま、交際は惰性によるものに成り下がっていった。私は処女だった。
「私よりもっともっと大事に出来るものを持っているとも知った。」
 教師希望の彼は夢見る少年の瞳で、“教育というものには、一生を捧げたってきっと足りない”と言った。ああ!私はこの無垢な瞳に恋したんだ――――けれど、純粋ゆえにとても残酷。彼は続けた。“教育実習を経て思ったよ、この身、全て投じられる。”優しい笑みの中に真摯な意気込みを感じた。根から真面目なんだなこの人は。そして思う。彼の世界に、私は要らない。彼の屈託ない眼差しはきっと私を捉えていない。彼のそれと同じぐらい優しい笑みを携えて私は言った、頑張ってね。頑張ってね――それしか言えなかった。私を見てとは言えなかった。かつての私が必死で恋した無垢な瞳を濁らせたくなかったのだ。しかしそれは所詮、恋にしか過ぎなかった。だから私は、その眼差しに伴う熱い意志を受け入れられなかった。私を幸せにしてくれそうには無かったから。そして私も彼を幸せには出来ないと思ったから。そう、単なる恋だった。
 その後も、彼は夢の下積みとなるであろう塾講師や学童のアルバイトに常に多忙、私は何となく学童のバイトをやめ高時給な居酒屋で働き始め、私達の生活は確実にすれ違っていった。彼はそれはそれで充実していたみたいだし、私も平気だった…平気なフリをした。彼は、いっそう活気に溢れていたけれど。
「彼の過去の事情はしょうがないと思う。酷い話だし、マセガキが、って思う。…最後に残ったのは、私には結局女としての魅力が無いんだなって言う落胆。」
 手をつなぐ。抱き合う。キスをする。恋人同士の当たり前の行為。その上で扇情的な雰囲気になっても、彼は勃たなかった。仕方ない。分かっている。
「やっぱ処女のコってエッチに興味あるものなの」という目立つ金髪の男の不躾な質問に、私は躊躇わず頷いた。そうだよ、周りの皆は好きな人と一体になれる幸福を感じている。浮き足立っている暇な大学生だし。その行為が果たしてどれだけ幸せなものかは私は知らないけど、だからこそ、私は知りたかったのだ。女としての幸福、女体のみが得る快感。
作品名:処女航海 作家名:クネ