再会
車で五分足らずの距離を、彼は毎日二回、訪ねてくれる。私の食事の世話のためだけに。そして、休みの日には、家中の掃除をしていってくれる。「彼」も言っていた。あいつの生真面目さと人の良さは希少価値で、もうレッドデータのレベルだ、と。私も本当にそう思う。掃除だけならなにも毎日来る必要はない。彼が毎日ここに来るのは、ひとえに、私の我儘が原因だ。彼のもとに一時的に引き取ろう、と言われたのを、私は頑として受け付けなかった。それには、私にとってとても大切な理由があったからだが、そんなことを、彼が知るはずもない。それでも折れて、こうして食事を欠かさず用意してくれるのは、何か理由があるからだろう、と察してくれたからだと思っている。本当に、彼の人の良さは、絶滅危惧種レベルだ。
彼の人の良さに感謝しつつ、ソファーに飛び乗りふと窓の外を見ると、日がほとんど沈もうとしていた。ため息をつき、今乗ったばかりのソファーから、また、飛び降りる。だいぶ日の入りが早くなってきたこの時期、日没前に夕飯というのは早すぎるが、仕方がない。早くしないと、ここに残った理由が、姿を現してしまうのだから。
用意された食事を、なるべく急いで食べ、私専用の扉から庭へ出る。その扉は変わった扉で、中からしか開けることができず、外からでは、いったん扉を閉めてしまうと、どこに扉があるのかさえ分からないという優れものだった。うっかり閉めてしまわないように、開け放ってあるかを確認して、そっと遅咲きの萩の元、愛しげにその花に手を添える彼女に近寄る。
―――こんばんは。
私の気配に気づいた彼女が振り返り、ふわりと微笑み口を開く。それに、こんばんは、と返し、私は彼女の足元に腰を下ろした。
彼女は、月のある時しか姿を現さない。そこに、太陽も存在するかしないかは重要ではなく、ただ、月のあるなしだけが関係する。つまり、満月のときは、一晩中。新月のときは、一日中。そうして姿を現すと、必ず花々の様子を確かめていた。この庭に植えられた、四季折々見る者を楽しませてくれる植物達は、昔彼女が植えたものらしい。
―――それで、「彼」の様子はどうだったの?
ぼんやりと萩を眺めていると、いつの間にか隣に腰を下ろしていた彼女が尋ねてきた。今日の様子を簡単に伝えると、彼女はクスクスと面白そうに笑った。
―――鞄の中に詰まっていったの? まったく、あの彼の発想と度胸には恐れ入るわね。見つかったら大騒ぎだったわよ。おとなしく鞄の中に詰められる貴女、というのもすごいけど。
そう言って、クスクスと笑う彼女にジトリと視線を向ける。視線を受けて謝意を告げつつ、けれど笑いのとまらない様子に思わずため息がこぼれる。それにさらに彼女は笑ったが、ふと、笑いをしまい、ポツリと呟いた。
―――でも、お見舞いに行けただけ、うらやましいわ。私はここから、動くことができないから……。
寂しげな表情で呟かれた言葉に、彼女も「彼」の不在に揺れているのだと感じた。「彼」は彼女の存在を感じることはできなかったけれど、彼女は常に、「彼」のことを見ていた。「彼」が庭のことを褒め、好んで庭が一番良く見渡せる部屋で本を読んでいるのを知り、とても喜んでいたことを私は知っている。
―――もう、「彼」は戻らないのかしら……。
その哀しげな呟きに、そんなことはない、と即座に返していた。必ず「彼」は、ここに戻ってくる。多少時間はかかるかもしれないけれど、必ず、戻ってくると。そう彼女を励ましながら、私は一月半ほど前、彼から、「彼」の状態を聞いた時のことを思い出していた。
彼は言っていた。「彼」が倒れた原因はノウソッチュウだと。そして、いまだに意識が戻らないのは、倒れた時、頭を強く打ったせいで、今後、意識が戻る確率は極めて低い、と。細かいことなどわからないけれど、あんな落ち方をして、無事で済むはずがないことは、私にもわかっていた。だから、そこまで驚きはしなかった。ただ、「彼」が戻らないかもしれないと聞いたその時、ふと思い出したのだ。随分と前に、「彼」が語って聞かせてくれた物語を。
それは「彼」の書いた物語で、人の死んだ後の世界の話だった。そこでは、人は死ぬと「死後の世界」とやらに向かう。そこがどんな世界だったかは詳しく覚えていないが、ただ人は、そこで幼から老ではなく、老から幼へと時を過ごしていく。そうして最後には、また生まれなおすのだと、そう描かれていた。あたかも、山奥から流れ出した一滴の水が、長い時をかけ海へ向かい、海からまた空に向かい、雨となって山に帰るように。そしてまた、海へと向かうように。
「彼」はそれを想像にすぎないと言っていたけれど、私はとても驚いた。なぜならそれは、真実だったから。私はそれを知っていたから。彼女の存在を、知っていたから。
思えば、彼女の姿も、初めて出会ったころに比べると随分と変わった。あの頃は、哀しげでどこかやつれた、ほとんど微笑うことのない女性だったのに、今では、可愛らしい少女のような笑みを、惜しむことなく見せてくれる。彼女は、この地に縛られてしまった存在だけれど、それでもいつかきっと、山に帰る日が来るだろう。いつか、彼女が完全に、哀しげな顔をしなくなったら。
月がだいぶ傾いたのを見て、私は、再び花の様子を見て回っていた彼女にお休みを告げ、家の中に戻った。きっちりと、戸を閉める。彼が来るにはまだまだ時間はあるが、その前に、ひと眠りしておかなければならない。生真面目な彼を、きちんと玄関で出迎えるのは、私なりの感謝と誠意なのだから。
そうして瞼を下し、闇に身をゆだねる僅かの間に、考える。もし、「彼」が二度と、この家に戻らなかったとしたら、と。「彼」が今刻む時が、止まってしまった後、もしかしたら、「彼」は、「彼」の描いた死後の世界とやらに行ってしまい、ここには戻らないのではないか、と。それは、当然ありうることだと思うのに、私はどこかで確信しているのだ。「彼」は、必ず、ここに来る、と。その思いを確かめて、私は満足して眠りに就くのだ。彼を、きちんと玄関で出迎えるために。
そうして私は待っているのだ。咲き乱れる花の庭で、彼女とともに。「彼」の漂う時の川が、海にたどり着く時を。昨日が今日になる時を。ここで、静かに待っているのだ。あの温かな微笑みに、もう一度、会える日を。
(『再会』 了)