クオリア
彼女が口を動かした後、烏はまたさまざまな色を纏って、しばらくせわしなく動いていたが、唐突に動きを止め、再び黒に包まれた。
そうして間が空き、少女の口が動く。今度は薄い青の色が見えた。
もしかすれば、烏と彼女は対話をしているのかもしれない。
そんなことを思っていると、彼女の色が不安定に揺らいだ。
□ ■
少女は、思ったよりも精神が安定している。はじめ、彼女はもう少し不安定な状態であるようだったが、何か安心できることでもあったのだろうか。
しかし、彼女はクオリアには達していない。
自分の居る世界は分かっている。他人の世界も分かっている。だけれど、彼女はまだ、クオリアにはなれない。
続けて問いかけた。
「色のある世界は、羨ましいか」
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何を言うのだろうか。この烏は。
色のある世界が羨ましい?
私の世界に色が無いのに、どうやって色のある世界を羨むというのか。
「羨むも何も、私は色を知らない。他人の世界を体感したことが無い。それなのに羨むことなんて出来ない」
少し、感じたことの無い感覚を体の中に感じた。
熱を持ったような、そんな感じ。
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少女の体は、今度はほんのりと赤い色を纏った。
先ほど見た、風景にすら同化してしまいそうな、存在の薄い彼女からすれば、ずいぶん感情が豊かになったように感じる。そしてすぐに赤の上に深い青が塗り重ねられる。
自分の知りえなかった感情に困惑しているのだろう。
□ ■
少女は困惑しているようだ。
とてもいい傾向にある。これでまたクオリアに近づいた。そして壁際に居る少年もまた、彼女の変化に気づいている。彼も、こうやってクオリアに近づいているのだ。
少女の感覚の希薄さも、少年の共感覚も、すこしずつ近づいている。
少女に問いを続ける。
「ならば、君の世界を羨む人はいるのか」
□
―――。
私の世界を?
羨む?
誰が私の世界を知るというのか。
―――違う。これはそうじゃない。色のある世界に生きた人から見て、ということなのだろうか。
だとしたら、私の世界は悲観するものではないのだろうか。だけれど、私は普通を知らない。
「―――ねえ」
気付いたら、私は振り返って少年に語りかけるそぶりをしていた。
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少女の深い青が、さらに沈んでいく。濃く、強く、内へ、内へ、小さく、小さく。
不意に、少女がこちらを向いた。
口が動く。聞こえはしないが、今の彼女なら動きだけで何が言いたいのかを感じ取ることが出来る。
『―――ねえ、あなたは、色の無い世界って想像出来る?』
僕には、そんな世界は到底思いつかない。逆に、今の僕が色を失ったら、同時に何もかもを見失ってしまうだろう。
僕は答える。
「きっと、僕はそこで、何も見ることは出来ない。たぶん、そんな世界だと思う」
□
彼の答えは、きっと正直な思いだったのだろう。やはり、私の世界は人が羨むようなものではないらしい。
私は、烏に向き直って、答える。
「きっと、居ないわ。―――居るとしたら、私のように、何も考えたくない人たちよ」
すこし、胸に風が通ったような感覚がした。
□ ■
少女は少年へと答えへの道を求めた。
そして、答えを導いた。もう、十分だろうか?
彼女に芽生えつつあるクオリアを、もう少し見たいと思ってしまう。これはエゴとも言えるし、親心とも言えるかもしれない。
とにかく、最後の質問を聞かなくてはならない。
「君は、何を望む」
□
私の望み。
それは、たぶんもっと綺麗な世界。そこで、私は、何の憂いも無く生きること。だけど私の体にそれは叶わない。
私が望むのは。
「普通が良いわ。私には幸せなんて荷が重過ぎるから」
烏は答える。
「でも、君にとっての普通は、もうあるだろう」
どういうことだろうか、問おうとしたが、烏は一度鳴いて、飛び去っていってしまった。
■
彼女の色が、滲んだ。
そして、彼女の口が動く。
「普通が良いわ。私には幸せなんて荷が重過ぎるから」
同時に黒い色が彼女を包んだ。
―――ああ、そうか。この色は、強い覚悟の色だ。
烏が鳴き声をあげた。と、同時に飛び立っていった。
黒い羽をすこし散らして、その大きな羽で飛び、すぐに森の暗がりに吸い込まれていった。
少女が一つ、落ちた羽を拾い上げた。
緑色に包まれている。
「そうね、ここがもう、私の普通」
と言ったのを感じた。
□ ■
彼女の答えは、満足に足るものだ。どんなところであろうと世界を感じる感覚は誰しもが違う。
違った中で、普遍を感じることが出来れば、それで十分なのだ。
彼女は、それを理解した。その上で、その世界を選択した。
白む世界も、聞こえない音も、伝わらない感覚も。
全てがクオリアなのだ。
それを、理解する必要は無い。おそらく、少女はそんなことは知らないだろう。
理解するのではなく、感じればいい。それとなく、そこにあるものだと思えばいい。
それがクオリア。
□
■
□
白い扉が開いて、二人だけの空間に、看護服のような白い服を着た女性が入ってきた。
手には籠。中には真っ赤なりんごがいくつか入っている。
もちろん少女には赤は見えないし、少年はその女性が何を考えているかすらも見透かしてしまう。
りんごを二人に一つずつ手渡すと、女性はすぐに外へ出て行った。
「これが、赤だよ」
少年は少女に語りかけます。
そんなことをやったって、少女に色など判るはずも無いのに。
少女は首を傾げるだけ。
少女にすれば、なぞれば消えてしまいそうな輪郭のりんご。
それに指を這わせて、染み込むように這わせて、一口かじる。
味も、香りも彼女には分からない。
こくん、と飲み込んで、口を開いた。
「見える世界も、見えない世界も、重要なのはそれじゃない」
少年は答えます。
「それが君のクオリア。なら僕のクオリアは―――?」
〈了〉