クオリア
□
私の世界は、こんなにも白い。
見える世界は白黒。私の目には色が映らない。光の強さだけで、何とかものを見られるだけの使えない目。
音も聞こえない。私の耳に響くのは、ただの空白。こんなもの、飾りでしかない。
口は、声の出ない、ただの食事器官。だって言うのに、味さえも私には届かない。いくらおいしいものだろうと、どんなにまずいものだろうと、私にとってはただの食物。
匂いも、私には届かない。鼻なんて、ただこの顔についた飾り。
当然、この手で触れるものの感触すらも曖昧だ。
私が信じられるのは、今ここで思考する私という存在だけ。
■
僕の世界は、色で満ちている。
他人(ひと)は、いつだっていろんな色を纏っている。怒った赤。沈んだ青。落ち着いた緑。驚いた黄色。そうやって、僕は人の感情を色で知ることが出来る。正確には、言葉についた色で。
言葉に色がつくだけじゃない。匂いや音、味なんかにも色がつく。他にも、音に感触―――つまりカタチがあったり、感触に味があったりもする。
僕は、一つの刺激を全ての感覚で受容しているらしい。
だから、僕が信じられないものなんて、この世界には無い。
□ ■
二人のいる空間は、壁も天井も床も、扉すらも真っ白だ。白でないのは、二人と窓の外に見える風景と、窓枠だけだ。窓は半分開いていて、すこしの風がその空間に流れ込んでいる。
二人は特になにをするでもなく、その空間で座り込んでいる。床の材質は分からないが、とてもぬくもりがあるようには見えない。しかし二人は、会話も交わすことなく、ただ座り込んでいた。
―――一羽の烏(からす)が、窓枠に停まった。
□
白い空間を見飽きて、私は窓の外へ視線を向けた。
窓の外に見える風景も、楽しめるようなものではない。でも、白一色の空間よりも光の強弱がはっきりした外の風景のほうが、幾分マシだ。
―――ここがどこかは、知らない。窓の外には森が広がるだけだ。
時折、何かが風景を横切っていく。たぶん鳥だろう。だからと言って、風景は変わらない。私はため息を吐(つ)いて、視線を隣にいる少年に向けた。
はたと、目が合った。
少年はすぐに向き直してしまい、彼の顔を直視出来たのは一瞬だった。
どこにでも居そうな、ありふれた顔。体は、あまり発育が良いとは言えそうに無い。それは私も同じことだが。
彼の名前は知らない。この建物に居る人たちは「十二号」とだけ呼んでいるし、私と彼とのかかわり合いもこれまでに無かったので、私は彼の名前を知らない。
もちろん、彼とこの空間に二人で居る理由も知らない。朝起きたら、私はもう、この空間に居た。
そしてしばらくして、朝食が運ばれてくるのと一緒に、彼もこの空間へやってきたのだ。
あるいは、彼は今の状況の意図を知っているのかもしれない。
ふと、少年が立ち上がった。
何かと思えば、神妙な顔で窓の方を見ている。つられて、私も窓へ目を向けた。
そこに、一羽の烏を見る。
■
窓の方をずっと見ていたが、さすがに飽きて、僕は隣に居る少女に目を向ける。髪は長く、座ったままでは毛先が床についてしまっている。ゆえに、髪で隠れていて、顔を窺うことはことは出来ない。
少女がおもむろに、ため息のような吐息を漏らして、どうかしたのかと覗き込もうとすると、突然に彼女の顔がこちらへ向けられた。
丸く、大きな目が僕の視界の真ん中に並んだ。
―――それも、一瞬。
僕はすぐに視線をそらした。
白一色の世界が視界を埋める。彼女と目が合ったとき、彼女には、色が無かった。
壁や床と同化しているかのようにすら錯覚してしまうほどに。
色の無い人間なんて、初めて見た。
いや、人間だけじゃない。思考回路のような器官を持つもので、今まで色の無いものなんて、見たことが無い。
まだ彼女は僕のほうを見ているのだろうか。どうしようもなく僕は窓に目を向ける。
そこに、一羽の烏を見る。
□ ■
二人はすることも無く、空間を見回している。と、思えば目が合って、少年は視線を外して床に向けてしまう。少女はそんな少年を、石ころでも見るかのように見ている。ふと少年がこちらを向いて立ち上がった。
少女もつられてこちらへ目を向ける。少女は立ち上がってこちらへよってきた。
手を伸ばして、触れようとしているのか。伸ばしてきた手に、擦り寄る。少女は驚きもせず、そのまま手を這わせた。
指一本一本で、暗闇の先を確かめるようにゆっくりと撫で回す。時間をかけて、全体を撫で回してから、少女はそっと手を離した。
しかし、じっとこちらを見ている。
口を開いて、問う。
「この世界は、好きか」
□
私は立ち上がって、窓へ歩み寄る。烏は動きもせずに中空を見つめているように見える。そっと手を伸ばして触れようとすると、烏は私の手に擦り寄ってきた。
私の感覚の薄い手のひらに、仄かなぬくもりが伝わってくる。ゆっくりと烏の体全体を撫でて、手を離すと、烏が問いかけてきた。
「この世界は、好きか」
私は驚きもしない。人がしゃべるのなら、烏がしゃべらない道理は無いだろう。
声の出ない口を開き、私は答える。
「当たり前のことに、好きも嫌いもないわ」
■
驚いて、僕は立ち上がった。
烏は黒い羽のその上に、さまざまな色を纏っている。
そうして、唖然としていると、隣の少女が立ち上がって、烏へと歩み寄っていった。
彼女が手を伸ばすと、烏はその手に擦り寄った。
色の無い少女から、ほんのわずかに、緑の色が見えた。
彼女は烏を一通り撫で回すと、烏から手を離した。
すると、烏の色が見る見る黒くなる。
―――黒?
色がなくなっているわけではない。さまざまな色が混じって黒く見えているわけでもない。ただ、黒に統一されたのだ。黒い感情なんて、僕は知らない。横に居る少女は相変わらず無色だ。
と、少女に意識を向けると、彼女はなにやら口を動かしている。だが声は聞こえない。
顔は、烏へと向けられている。
□ ■
問いに対して、少女は答えを出してきた。
なるほど、確かにその世界が当たり前ならば、好きも嫌いも無いだろう。
では、他人の世界を見ても、同じ答えが返ってくるのだろうか。
興味が尽きぬことである。
しかし、そんなことは不可能であり、出来たとしても、無駄な苦労であろう。
では、その当たり前を問おう。
「君の当たり前とは、なんだ」
□
私が答えると、烏は二、三首をかしげて、羽広げたり、足踏みをしたりとなかなかにいそがしく立ち振る舞った。
ようやく落ち着いたかと思えば、また私に問いかけてきた。
「君の当たり前とは、なんだ」
さっきといい、この烏は意味の無い質問をするものだ。
私はため息混じりに答える。
「決まっているでしょう。私に見える世界よ」
私に見えない世界など、そんなものは私と何の関係も無いものだ。私の世界は、―――たとえばそこに居る少年に見ることは出来ないけど、同じように彼の世界は私に見ることは出来ない。
だから、人間には「個人」があるんじゃないのか。
■
私の世界は、こんなにも白い。
見える世界は白黒。私の目には色が映らない。光の強さだけで、何とかものを見られるだけの使えない目。
音も聞こえない。私の耳に響くのは、ただの空白。こんなもの、飾りでしかない。
口は、声の出ない、ただの食事器官。だって言うのに、味さえも私には届かない。いくらおいしいものだろうと、どんなにまずいものだろうと、私にとってはただの食物。
匂いも、私には届かない。鼻なんて、ただこの顔についた飾り。
当然、この手で触れるものの感触すらも曖昧だ。
私が信じられるのは、今ここで思考する私という存在だけ。
■
僕の世界は、色で満ちている。
他人(ひと)は、いつだっていろんな色を纏っている。怒った赤。沈んだ青。落ち着いた緑。驚いた黄色。そうやって、僕は人の感情を色で知ることが出来る。正確には、言葉についた色で。
言葉に色がつくだけじゃない。匂いや音、味なんかにも色がつく。他にも、音に感触―――つまりカタチがあったり、感触に味があったりもする。
僕は、一つの刺激を全ての感覚で受容しているらしい。
だから、僕が信じられないものなんて、この世界には無い。
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二人のいる空間は、壁も天井も床も、扉すらも真っ白だ。白でないのは、二人と窓の外に見える風景と、窓枠だけだ。窓は半分開いていて、すこしの風がその空間に流れ込んでいる。
二人は特になにをするでもなく、その空間で座り込んでいる。床の材質は分からないが、とてもぬくもりがあるようには見えない。しかし二人は、会話も交わすことなく、ただ座り込んでいた。
―――一羽の烏(からす)が、窓枠に停まった。
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白い空間を見飽きて、私は窓の外へ視線を向けた。
窓の外に見える風景も、楽しめるようなものではない。でも、白一色の空間よりも光の強弱がはっきりした外の風景のほうが、幾分マシだ。
―――ここがどこかは、知らない。窓の外には森が広がるだけだ。
時折、何かが風景を横切っていく。たぶん鳥だろう。だからと言って、風景は変わらない。私はため息を吐(つ)いて、視線を隣にいる少年に向けた。
はたと、目が合った。
少年はすぐに向き直してしまい、彼の顔を直視出来たのは一瞬だった。
どこにでも居そうな、ありふれた顔。体は、あまり発育が良いとは言えそうに無い。それは私も同じことだが。
彼の名前は知らない。この建物に居る人たちは「十二号」とだけ呼んでいるし、私と彼とのかかわり合いもこれまでに無かったので、私は彼の名前を知らない。
もちろん、彼とこの空間に二人で居る理由も知らない。朝起きたら、私はもう、この空間に居た。
そしてしばらくして、朝食が運ばれてくるのと一緒に、彼もこの空間へやってきたのだ。
あるいは、彼は今の状況の意図を知っているのかもしれない。
ふと、少年が立ち上がった。
何かと思えば、神妙な顔で窓の方を見ている。つられて、私も窓へ目を向けた。
そこに、一羽の烏を見る。
■
窓の方をずっと見ていたが、さすがに飽きて、僕は隣に居る少女に目を向ける。髪は長く、座ったままでは毛先が床についてしまっている。ゆえに、髪で隠れていて、顔を窺うことはことは出来ない。
少女がおもむろに、ため息のような吐息を漏らして、どうかしたのかと覗き込もうとすると、突然に彼女の顔がこちらへ向けられた。
丸く、大きな目が僕の視界の真ん中に並んだ。
―――それも、一瞬。
僕はすぐに視線をそらした。
白一色の世界が視界を埋める。彼女と目が合ったとき、彼女には、色が無かった。
壁や床と同化しているかのようにすら錯覚してしまうほどに。
色の無い人間なんて、初めて見た。
いや、人間だけじゃない。思考回路のような器官を持つもので、今まで色の無いものなんて、見たことが無い。
まだ彼女は僕のほうを見ているのだろうか。どうしようもなく僕は窓に目を向ける。
そこに、一羽の烏を見る。
□ ■
二人はすることも無く、空間を見回している。と、思えば目が合って、少年は視線を外して床に向けてしまう。少女はそんな少年を、石ころでも見るかのように見ている。ふと少年がこちらを向いて立ち上がった。
少女もつられてこちらへ目を向ける。少女は立ち上がってこちらへよってきた。
手を伸ばして、触れようとしているのか。伸ばしてきた手に、擦り寄る。少女は驚きもせず、そのまま手を這わせた。
指一本一本で、暗闇の先を確かめるようにゆっくりと撫で回す。時間をかけて、全体を撫で回してから、少女はそっと手を離した。
しかし、じっとこちらを見ている。
口を開いて、問う。
「この世界は、好きか」
□
私は立ち上がって、窓へ歩み寄る。烏は動きもせずに中空を見つめているように見える。そっと手を伸ばして触れようとすると、烏は私の手に擦り寄ってきた。
私の感覚の薄い手のひらに、仄かなぬくもりが伝わってくる。ゆっくりと烏の体全体を撫でて、手を離すと、烏が問いかけてきた。
「この世界は、好きか」
私は驚きもしない。人がしゃべるのなら、烏がしゃべらない道理は無いだろう。
声の出ない口を開き、私は答える。
「当たり前のことに、好きも嫌いもないわ」
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驚いて、僕は立ち上がった。
烏は黒い羽のその上に、さまざまな色を纏っている。
そうして、唖然としていると、隣の少女が立ち上がって、烏へと歩み寄っていった。
彼女が手を伸ばすと、烏はその手に擦り寄った。
色の無い少女から、ほんのわずかに、緑の色が見えた。
彼女は烏を一通り撫で回すと、烏から手を離した。
すると、烏の色が見る見る黒くなる。
―――黒?
色がなくなっているわけではない。さまざまな色が混じって黒く見えているわけでもない。ただ、黒に統一されたのだ。黒い感情なんて、僕は知らない。横に居る少女は相変わらず無色だ。
と、少女に意識を向けると、彼女はなにやら口を動かしている。だが声は聞こえない。
顔は、烏へと向けられている。
□ ■
問いに対して、少女は答えを出してきた。
なるほど、確かにその世界が当たり前ならば、好きも嫌いも無いだろう。
では、他人の世界を見ても、同じ答えが返ってくるのだろうか。
興味が尽きぬことである。
しかし、そんなことは不可能であり、出来たとしても、無駄な苦労であろう。
では、その当たり前を問おう。
「君の当たり前とは、なんだ」
□
私が答えると、烏は二、三首をかしげて、羽広げたり、足踏みをしたりとなかなかにいそがしく立ち振る舞った。
ようやく落ち着いたかと思えば、また私に問いかけてきた。
「君の当たり前とは、なんだ」
さっきといい、この烏は意味の無い質問をするものだ。
私はため息混じりに答える。
「決まっているでしょう。私に見える世界よ」
私に見えない世界など、そんなものは私と何の関係も無いものだ。私の世界は、―――たとえばそこに居る少年に見ることは出来ないけど、同じように彼の世界は私に見ることは出来ない。
だから、人間には「個人」があるんじゃないのか。
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