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虹色の感情を抱いているよ

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<章=no.001>


 天気予報は、晴時々曇だって言っていた。降水確率0%。



 少ししかない屋根、校庭のグラウンドの周りにあるのよりもずっと低いフェンスの向こう、また電車が1本通りすぎる。
轟音にかき消され、その言葉は聞こえなかった。

 だがその言葉は彼女に聞き返すほど意味のあるものではないことも、わかっていた。

 「で、話って何」

 だから、勝手に彼女らしい台詞として解釈した。

 「別に」

 大したことじゃ、と言おうとして、やめた。返ってくるのは実に彼女らしい言葉だと思ったからだ。可笑しくなって、笑いたくなった。でも笑いたくないと決めていたから、口の中で噛み潰す。そして中途半端に顔を歪めてしまった。歪んだまま、目元で愛しさを降り注ぐ。笑わないように。

 「明後日、出てくんだろ」

 彼女は、自分が考えていることになんて全く興味が無いのだろう。微妙な表情と声色の変化に、全く動じない。

 静かにまっすぐ、俺を見ている。いやむしろ見てもいないかもしれない。

 「それが、何」

 まったく、彼女らしくて本当に可笑しい。

 しかし今回ばかりは、少し違った表情を見られると思っている。

 「俺も出てくんだ」

 浮わついた心の傍ら、彼女の顔を直視できないことには、それほど驚かない。ただ緊張しているだけだから。

 「―――明日、ここを出てく」

 胸の奥で澱んでいる何かは、いつも絵の具みたいに幾つも幾層にも重なっている。やっぱり心の中はすっきりして晴々としている方が好きで、何にしろ異物が詰まったようなこの感覚が嫌いだ。

 胸ぐらをひっかいてもどうにもならないこともわかっている。ひたすら持て余すしか手はない。

 ここからだったのだ。

 前の日も、その前も、彼女の反応が解らずに、混乱していた。いつもその表情を伺えずにいた。ここからは、完全に闇なのだ。


 「なんで」

 「なんでって、」

 こういうときに限って、あたり触りのない台詞。わかりきっていたような、わかっていなかったような、記憶が変だ。

 「兄さんが出てくことない」

 目を合わせられない。

 「出てく理由なんてないでしょ」

 今彼女はどんな顔をしているのか。

 「兄さんが出てくんだったら、母さんはどうするの」

 ああ、その話。

 「あたしは兄さんがいるから家を出てこれたのに」

 ―――俺がいなかったら母さんは1人になる。

 そんな不安を彼女は昔から持っていた。小さな、子供の頃から。

 俺は、自分のためにここを出るんじゃない。母さんのためなんだ。そしてお前のためなんだ。

 「母さんは1人にはならないよ」

 絶対に独りにはなれない、これは紛れもない事実だ。

 「だから安心してお前も俺もここを出ていける」

 息をうまく継げられないまま言葉を繋げた。言い終わってやっと、行き場を失っていた視線を、言葉に乗せた。

 (ああ、やっぱりだ)

 彼女は少し眉間にうっすらと皺を寄せて、顔を歪めていた。大きな感情を行動に乗せない彼女の性分は、小さいころから定着していた。学校の友人にも、家族にも、自分にも、誰に対しても昔からそうだった。

 「どうして」

 彼女の唇が動き始めて、遠くで踏切の音が聞こえた。

 「どうしてそんなことが」

 (…―――)

 彼女の表情はそのまま、瞳が、揺らいでいた。

 (珍しい――)

 胸の中で、熱いものが蠢いた。

 それなのに。今のこの心は、ひどくマイナスの方向に沈んでいる。心はまだ、闇の中に入り込んだまま、光は見えない。

 駅のホーム、電車の到着を知らせるサイレンが鳴る。

 「そんなことが」

 無意識に、つまらせて消えた言葉を意識の先の方で探った。

 継がれるべき台詞は解りきっているのに。何も見えないかのように、鬱とした心が狼狽えている。

 真っ暗で何もない部屋で蹲ってテレビを見詰めるかのような錯覚を覚えた。体は丸めたように動かなくて、抗う気は皆無、自分を縛るものが自分だという事実に混乱する。視界だけが見えているのに、何も見ていない矛盾に混乱している。


 ほつりと、肌に触れた感触に体が痺れた。そして一瞬のうちに心に染みる。

 (………)


 現実に、引き戻された。

 遠かった指先の触覚が、背筋が冷える感覚が、頬を髪を伝う異物感が、雨が降り始めたことを脳に知らせた。それでも瞼は少し重くて、目を上げないと、と思ってもなかなか出来なかった。濡れ鼠って言葉を思い出して、小さく笑った。

 不意に、鋭く高い金属音と、ゆっくりとした重い金属音が耳に入った。各停列車がホームに滑り込んでいく。ノイズのように降る雨の中、視界がぼんやりとそれを捉えた。乗客の少ない短い列車が、誰もいない駅に止まる。

 サイレンが消える。気付けば、首を少し横に向けて列車を見ていた。また発進するための蒸気の音がしていた。


 光が、溢れた。そのことに気付いた。


 首をまっすぐにして戻した視界の真ん中には、彼女がいた。誰もいない駅の出入口で、自分と2人、突っ立っている。

 (……雨)

 おもむろに視線を僅かに上げる。曇った空がぬるい雨を降らせている。

 (降らないって言ってたのにな)

 身に刺さる鈍い痛みに顔を歪めた。小雨程度の強さだが、早く雨の当たらないところに行かないと、突っ立っているだけでは体の冷えは早い。肩が湿っていく温度に身震いした。

 深呼吸すると、空気の独特の臭みが喉についた。


 改めて彼女を見遣る。

 頬が、濡れている。いや、そんなことは判りきっている。その髪だって肩だって、濡れているだろう。

 少し伏せた瞼に影を落とす前髪から、鼻筋を伝い、顎から離れた。それがまるで涙みたいだなんて、陳腐な感想はいらない。

 眼差しを翳らせる、睫毛に溜まっていく雫が涙なのかもしれないなんて、思わない。


 いや、もしかしたら思いたくないだけなのかと、気付くには遅すぎた。



 動揺した―――おそらくは彼女なりに動揺したまま、答え未だ返ってきていない。もどかしくて、いたたまれない。胸の奥に何かがつっかえている感覚は無いが、逆に何かに縛られている、もしくは閉じ込められている感覚がある。

 彼女らしい、軽く流されたような冷たい台詞とイントネーション、それが今の一番の希望だった。

 どうか君らしくと、願う俺を少しだけ笑う。


 彼女が徐に俯く。

 珍しいと、ぼんやりとその様を記憶した。3mも離れているから彼女の表情を詳しく読みとることは出来ない。



 雨なんて降らないって言ってたのに。夕立であってくれとうっすら願った。

 紫外線を吐き散らす白い雲はもう無い。空には分厚く澱んだ、黒い雲ばかりが重なっている。雷が来るかもしれないくらいに空は黒く、ただのノイズだった雨はしっかりと存在を示すように、強くなってきた。その塊が、服を通り越して皮膚を伝う。

 (……冷たいな)

 だだっ広い田舎の田んぼの中で、誰もいない駅で、何をするとも無く雨に打たれている自分と彼女とを考えると悲しくなった。