「月傾く淡海」 第六章 葛城の宿業
あれから何十年も経過した今、全てが歴史の彼方に埋もれてしまったこの時に、どんなに悔やんでみても、もうどうすることもできないが--何故、円は、一族と引き換えにしてまでも、目弱王を守ったのか。
自分ならば、絶対にそんなことはしない。自分が首長ならば、最後まで葛城を守ってみせる。もしも、自分があの時の首長だったならば--。
(……あれ? なんだろう……)
ふと視界に入った物が気になって、倭文は手の甲で涙を拭いた。涙でかすんでいた目の端に、金色に光る物が映ったのだ。
頭を振って意識を呼び起こし、刮目した倭文が見たのは、空から降り注ぐ、銀杏の木の葉だった。
はらはら、ゆらゆらと。
金色に色づいた扇形の木の葉は、雪のように無数に降り注ぐ。
倭文は立ち上がり、天を仰いだ。
彼女が夢を見ながらもたれかかっていたのは、よく見慣れた大銀杏の大木--その幹の根元だった。
これは、葛城山の神木……では、見るはずのない夢を見たのは、この神木の霊力か?
正気に戻った途端、倭文は寒気を感じ身を震わせた。
そうだ、季節はもう冬なのだ。しかも、ここは標高の高い山の中のはずである。倭文は常の装束の上に、見覚えのない新しい襲を羽織らされていたが、それでも山の冷気は容赦なく彼女の肌に突き刺さってきた。
周囲を見回して見ると、林の木々は既に葉を落とし、立ち枯れた初冬の寒々しい様相を見せている。
--だが、大銀杏だけは違った。大いなる神木は、全身に金の歩揺を纏い、厳かに佇んでいる。
……ああ、ここは金の神域。一年中、けして変わることのない場所……。
「……本当に、不思議な木ね」
幹に手を当て、倭文は大銀杏に話しかけた。
こうしているだけで、心が穏やかになるように気がする。今まで起こった忌まわしい出来事さえ、さっきのような、ただの夢だったように……。
「--いや、夢じゃないよ」
倭文の心を読んだかのように、大銀杏の上から聞き慣れた声が振ってきた。
倭文には、その声の主が誰だか分かっていた。葛城の神木である大銀杏に依り憑くことの出来るもの--それは、この世にただ一人しか存在しない。
「出てきなさいよ、一言主」
倭文は銀杏の葉を掴みながら呼びかけた。
「……やっと起きたんだな」
そう言いながら、葛城一言主は大銀杏のどこかの枝から飛び降りてきた。
銀杏の木の葉が乱舞する中で、彼は常のごとく倭文の前に立つ。
「ずっと寝てるつもりかと思ったぜ?」
そう言うと、ニヤッと笑った。
そんなに長い間離れていた訳でもないのに、倭文には一言主の姿が随分懐かしく感じられた。
高歯の付いた下駄。短く切った袴から出ている素足。左手に持った、古い長矛。印象的な、短い銀髪。
少年のような、青年のような、細身の姿。ああ、よく見慣れたものばかりだ。
仮面をつけた、その顔も--。
(……顔……?)
倭文は、改めて一言主の顔を凝視した。勿論、彼の顔の上半分は、奇妙な文様の入った仮面で隠されている。
それなのに、倭文は彼の顔を知っているような気がした。ずっと昔から、見知っている
のではない。それは、ついさっき、見たばかりのもので……。
我知らず、倭文は一言主に向かって手を伸ばしていた。ごく当たり前のように、その仮面を剥がそうとしたのである。だって、そこにあるのは、知っているはずの顔なのだから--。
「……駄目だよ」
倭文の指が仮面に振れる寸前、一言主の手が彼女の手首を掴んだ。
「まだ、見ちゃだめだ」
「でも、一言主、あなた--」
倭文の心は、一瞬ためらいを覚える。
しかしその唇は、本人の意志よりも簡単に、予定していた音を吐き出してしまった。
「あなた……円、でしょう?」
「……」
「葛城の……円の……大臣なんでしょう?」
一言主は、倭文の手首を離した。
倭文の腕は素直に下に落ちる。
しばらく無言で倭文を眺めていた一言主は、やがて朱色の唇を緩く解いた。
「……どうして、そう思う?」
驚くことも、動じる事もない。
恬然とした様子のまま、一言主は倭文に問い返した。
「だって……さっき、見たから」
「--夢で?」
「そうよ。見たわ。円の大臣と……泊瀬の皇子が話しているところ……」
言いながら、倭文は鮮明な夢の記憶と、目の前の一言主の姿を重ね合わせた。
髪の色こそ違うけれど。その肌の色も顎の線も唇の形も、あの夢で見た若い大臣とまったく同じだ。仮面に隠されたその瞳でさえ、透かし見できるほどに。
倭文には、一言主の相貌がとらえられた。
「そうかあ……。やっぱり、倭文には、視えちゃうんだなあ」
どこか残念そうに呟きながら、一言主は右足で大銀杏の根を蹴った。
「さっき見た夢……あれが、目弱王の乱の時の事ね?」
倭文は確認するように一言主に聞いた。
「俺と泊瀬が出てきたんなら、多分そうだな」
「でもどうして……私が生まれるずっと以前のことなのに……」
「--さあ。こいつが、見てもらいたかったんじゃないの?」
言いながら、一言主は大銀杏の幹を叩いた。
「やっぱり、神木の霊力で……?」
「俺が頼んだのは、倭文を癒してって事だけだっんだけど。まあ、古い記憶は、一族の血の中にも受け継がれてるからね……」
倭文は大銀杏を見上げた。
もう、何百年生きているのかもわからないくらい、古い木だ。葛城の一族がこの地に住み着くずっとずっと昔からこの山に在り、一族の歴史を--その喜びも哀しみも全て、黙って見つめてきたのだろう。
生まれる者と、滅びゆく者を……。
「--一言主。あなたが円だと……玉田葛城最後の首長、円の大臣だというのなら、どうしても聞きたいことがあるの。あなたはどうして--どうして、一族全ての命運と引き換えにしてまで、目弱王一人を救おうとしたの」
倭文は一言主に向き直り、真摯な黒瞳で彼の仮面に隠された顔を見据えた。
「たとえそれが実父の仇討ちだったとしても、「穴穂の大王」を弑逆してしまった目弱王は、間違いなく反逆者だったはずよ。そんな目弱王を匿えば、葛城も謀反の同罪に処せられることなんて、首長なら分かっていたでしょう!?」
倭文は責め立てるように一言主に迫った。
「あなたにとって目弱王は、一族を滅ぼしてもいいほど、大切な存在だったというの!?」
「……いや」
一言主は、従容としたまま短く答えた。
「あの世間知らずのガキとは、殆ど会ったこともなかった。正確に言えば、目弱王とじっくり話し合ったのは、あの乱の時が最初で最後だ。--奴が俺を頼ってきたのは、単に、俺があの頃一番権勢を持っていた大臣だったからだろう」
淡々と答える一言主を見て、倭文は呆れたように叫んだ。
「じゃあ、なんで、そんな人間の為に!」
「……それが、正しいと、思ったから。あの時は」
「正しい?」
「弱って、助けを求めてきた幼い者を、追手に差し出すことは出来ない。庇護してやるのが、大臣として……人として、あるべき姿だと」
「あなたは首長として間違ってたわ! あなたが言ってるのは、ただのきれい事よ!」
作品名:「月傾く淡海」 第六章 葛城の宿業 作家名:さくら