とある夜と、兄と妹
ノッてくると、雑音というものは耳に入らなくなる。ただシャーペンが紙を引っ掻く手ごたえだけを感じながら、問題を解いていく。突っかかる個所がないと、とてつもない快感だ。勉強をすること自体は本当に嫌いじゃない。
最後の問題を解いて、息を吐きながら首を回すとごきんと音がした。最近じゃ、子供の肩こりなんてそう珍しいものでもないらしい。塾の知り合いには整体に通っているやつもいるぐらいだ。
椅子をくるりと回転させて妹の方を見ると、真っ白だった用紙はとりどりな色で満ちていた。赤い三角屋根の家、黄色い太陽、池だか湖だかには白い鳥が浮いている。家の前には人間が四人。きっと、父と義母と僕と妹なのだろう。みんなで一列になって手を繋いでいる。赤いクレヨンで、唇が笑った形に塗られていた。
僕はなんかもう、泣きそうだ。なんて不憫な妹。そうだ、僕たちは最初の頃、こんな風に仲の良い家族だったじゃないか。血の繋がりはなくても、間違いなく僕たちは家族なんだ。
僕は兄としての威厳を保つため、ゲホン、と咳払いをして声を取り繕うと、
「上手に描けたね」
と、妹に声をかけた。妹は顔を上げて僕を見た後、もう一度用紙に視線を下げた。黒いクレヨンを取り上げる。まだ何か描きこむのだろうか? じっと様子を見守っていると、妹はおもむろに家と家族をぐりぐりとそれで塗りつぶし始めた。
ガーン。
擬音を付けるとするなら、【ガーン】だ。
いやまあ確かに今はそんなに仲良くないかもしれないけど! そりゃないよ! というかやばいよ僕の妹! 齢四つにしてすでに心が壊れかけてる! こりゃ僕の時よりも重症だ! 両親の不仲は、予想以上に妹の心に負担をかけているようだ。
耳を澄ませば、まだもにゃもにゃと低い声が聞こえてくる。猛烈に腹が立った。あの人たちは、自分たちが喧嘩をしているとき僕たちがどうしているのかちゃんとわかっているのだろうか? 子供たちは透明なゼリーになって何も考えずぷるぷる揺れているとでも思っているのだろうか? 妹はまだ四つだけどちゃんと言葉を理解している。理解できていなくても、怒りとかそういう感情は読み取れるのだ。
なんてかわいそうな妹! これがトラウマになって一生独身だったりなんてしたらどう責任取るつもりだあの親は。
「さおり」
妹の隣に膝をつけながら、さりげなくクレヨンとお絵かき帳を取り上げる。
「兄ちゃんと、お散歩に行こうか」
「よるは、おそとでちゃいけないんだよ?」
「兄ちゃんと一緒だったらいいんだよ。でも、さおりだけで夜出かけたらだめだよ? さおり、お散歩、行きたくない?」
時計は二十三時を指し示している。
妹はむにゅっと困ったような顔をしたけど、最終的にはこくんと頷いた。 うん? あれ、その頷きってどっちなんだろう。行きたくないんだろうか、行きたいんだろうか。
よくわからなかったので、とりあえず抱っこしてみる。嫌がらなかったので、頷いたのは【いく】ということなのだろう。もしかして妹の口数が少ないのも親の喧嘩が原因だったりするのだろうか。だとしたらなんて罪深い大人達なんだ。
鞄の中に、妹のお絵かき帳やおもちゃ、財布と携帯を突っ込んで、 どうせばれやしないだろうけど、そっと玄関で靴を履く。妹の小さな足にも赤い靴を履かせて、家を出た。行くところなんてない。こういうとき、自分が子供であることが悔しくなる。十四歳というのは微妙なのだ。大人じゃないけどかといって何もできないほど子供でもない。思考だけが発達しているが、親に反発するためにできることなんてプチ家出ぐらいのもんだ。小賢しいというか小狡いというか。
僕たちがいないことに気付いたら、親はどうするだろう。慌てて外に飛び出すだろうか? 自分たちの行いを反省するだろうか? しないだろうな。だってしていたら、少なくとも僕の父は子供が家にいる時間に義母と喧嘩はしない。
自動販売機であったかいミルクティーとココアを買って、結局家の近くの小さな公園で時間を潰すことにした。妹をベンチに座らせて、ココアを与える。自分のミルクティーをちびちび飲みながら、これからどうすっかなぁと考えた。
せっかく家出したんだから、親が気付いて慌てふためき己の行いを鑑みるまで逃げ続けるべきだが、なにせ四つの妹がいるのだ。四歳に、冬の夜の寒さは辛いだろう。それに、妹はとっくの昔におねむの時間なのだ。ほんとうはこんなことするべきではなかったのかもしれない。
途方に暮れていると、妹が「ブランコしたい」と言い始めた。
「じゃあ、する?」
「うん」
頷くが早いか、妹はテテテと走ってブランコにしがみ付いた。座らせてゆっくり背中を押してやると、小さな足をぱたぱたさせる。楽しいらしい。錆びた鎖がきぃきぃ軋む音を聞きながら、妹の背中を押し続けた。どうか歪むことなくまっすぐに成長しますように、と祈りながら。
きぃきぃ軋むブランコの音にちょっと泣きそうになったけど、兄の威厳を保つために我慢した。僕が泣いたらもう終わりだ。連鎖反応で妹も絶対に泣く。落ちゲーの連鎖を見ていればわかる。意図したわけでもないのに、時たまとんでもない大連鎖かますことがあるが、あれは人生の縮図みたいなもんじゃないかと思う。もし今僕がここで泣いたら、妹は十歳でグレて化粧やら煙草やら酒を始めた挙句真っキンキンに髪を染めて夜の公園じゃなくて夜の繁華街でなにやらいかがわしげな店に入り浸り男女関係で失敗したりして僕はものすごく若くしておじさんになったりするかもしれない。そしたら多分僕は泣くのだ。ああ、あの夜僕が泣かなければ、こんなことにはならなかったのに、と。
やばい、想像すると余計に泣きそうになってきた。
誤魔化すように、妹の背中を押していると、「……向井?」と訝しげな声が聞こえた。
暗がりからにょきりと現れた人間に、度肝を抜かれる。
「うわあ!?」
「ちょ、その悲鳴オレのなんだけど。こんな夜中にきぃきぃ音するからさ、幽霊でもいるかと思ってビビったっつーの。まじホラーだったっつーの」
ギャハハと笑ったのは、六年間同じ小学校に通っていた日渡だった。日渡は小学生のころからワルと名高かったやつで、その頃には多少話したりすることもあったが、今となっては顔を合わせることもあまりない。というか、小学校の卒業以来、初めて会ったような気がする。
「え、何その子、向井の妹? お前、妹とかいたっけ」
「あー、できた。一年前に」
「あー」
日渡は、妹の前でちょこんとヤンキー座りをした。
「何歳?」
「よっつ。むかいさおりです」
「えらいじゃん。年と名前言えるんだ。迷子になってもこまらねーな」
「日渡、こんな時間に何やってんだよ」
「こっちの台詞。四歳の妹連れて、こんな夜中に何やってんの? 公園で遊ぶには時間おそくね?」
日渡はにやにや笑いながら僕を見上げる。妹は、珍しそうに日渡の顔を見つめていた。
「…………プチ家出?」
「真面目な向井クンらしくありませんなあ」
「人生には、そういう迷い道も必要なんだよ」
たぶん。
「ふぅん。迷い過ぎて抜け出せなくなるなよ」
グサッときた。今、不安を煽るような発言は慎んで欲しい。