真冬の海
4
真夏の夜中だった。
何日も何日も雨が降らなくて、それなのに空気は湿気を含んで重い。
さすがに夜は少しだけ気温が下がるが、それでもじっとりと汗をかいて寝苦しい。
あまりの暑さに、目を覚ました。喉がからからだった。
台所で水を飲もうと思い、ベッドから這い出た。隣の部屋の気配をうかがう。微かにモニターの電子音がする。また寝ずにパソコンで漫画を描いているのだろう。
部屋の扉を開け、廊下に出る。
夏は嫌いだ。暖かい空気が二階にあがってくる。そして隣の部屋では、人間が腐っている。これが死臭だったらいいのに。そう思う。心から。
台所でコップになみなみと水を注ぎ、一気に飲み干す。少しだけ、汗がひいた気がした。息を吐いて、深夜の真っ暗なリビングを眺める。虫の声と、車の音が遠くに響いている。こんな時間に目を覚ましている存在がある、というのが奇妙に感じられる。そして一瞬後に、自分の真上にいつもそんな生活をしている人間がいることに思い当たる。
冷たい水に完全に目が覚めてしまったようで、わたしはそっとダイニングテーブルの椅子をひく。隣の和室には両親が寝ているが、いびきも寝息も聞こえない。暗闇は音さえ吸い込んでしまうのだろうか。
夜の藍色に染まる部屋は、まるで知らない場所のようによそよそしい。家で過ごす時間のほとんどを過ごすリビングの景色は、わたしを拒絶しているようだ。ここにいるべきはわたしじゃないんだろう。
-だめだ。
考えたくもない。でも頭に浮かぶ。
わたしは、いや、わたしたちは、あの女に支配されている。どんなに楽しい時間を過ごしていても、何を考えていても、いつもあの女のことが思い浮かぶ。考えたくないと思えば思うほど、あの顔が浮かんでくる。
じわりと目が熱くなる。
その時だった。
ガタンッ
階段の方からものすごい音がした。
反射的にわたしは椅子から腰を浮かせる。
続いてドンドンドン、ドンッと最後に一際大きな音がして静かになった。
まずい、姉だ。
あの女は夜中に台所の残り物を漁りに階下に降りてくる。
しかし、ただ階段を降りてくるだけにしては音が大きすぎはしないだろうか。いくら体が重たいと言っても。
わたしはしばらく腰を浮かせたまま固まっていた。姉がリビングに入ってくる気配もない。
おかしい。姉ではないのか。泥棒でも入ってきたのか。
わたしは恐る恐る立ち上がり、少しづつ玄関に続く扉に近づく。物音は、しない。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開く。細く開けた扉から片目だけで外を見る。そこには、
そこには階段の下で横になっている姉がいた。
眠っている、わけではないだろう。
扉をすり抜けるようにして、わたしは姉に近づく。
同じ家にいて、もう何年もその姿を見ていなかった。見ようともしなかったし、見たくなかった。
姉は階段の下で、リビングに足を向けて倒れていた。
-落ちたんだ。
二階の手前の部屋。内側から開ければ階段はもう目の前だ。
何年も暮らした家の階段から滑り落ちる。それも仕方ないだろう。部屋から出ることもほとんどない。長年のひきこもり生活。それでも食べ物には困らない。それどころか夜中に台所を荒らすほどなのだから、こいつの腹はでっぷりと肉が付いている。足もとも見えないくらいなのだろう。
-くだらない。
くだらない。くだらない。くだらない。馬鹿だ。こいつはただの馬鹿なんだ。
小さい頃から社交性なんてものはかけらも無くて、友達もいなくて、家で漫画ばかり読んでいた。それを周りの人間が馬鹿なんだとか、低能だとか、努力なんてしないで自分を守って守って守って、自分ひとりの世界にひきこもって。
転がった姉の顔を、真上からのぞく。
姉は、まだ、生きていた。
しかし苦しそうに細く早く息をして、打ち所が悪かったのだろう、目は虚ろにわたしを見ている。
何かしゃべろうとしている。
でも声が出ていない。
わたしは確信する。
放っておけば、こいつは死ぬんだ。
そう思った瞬間、さっきまでの憎悪とか嫌悪とかあの女に関する嫌な感情がすっと引いていった。
まるで真冬の海のようだと思った。さっきまでわたしの感情は渦巻いていた。今はただ、冷たい。ただひたすらに、冷たい。
リビングの扉が開いた。母が顔を出す。瞬時に状況を察したようで、暗い中でも血の気が引いたのがわかった。ばたばたとわたしの横に来て、姉の顔をのぞく。息を飲む。とって返そうとした母の腕を、わたしは、つかんだ。
驚いてわたしの顔を見て、救急車を、と言おうとして、察した。
母の顔から表情が消える。
父も異常に気付いて玄関に出てきた。姉を見て、何も言わずに、わたしと母の肩を抱いた。
父と母と、わたしと、姉。
何年振りだろう、家族が全員揃っている。
さっきまで聞こえていた真夏の夜の小さな音が、全て止んでいる。
聞こえるのは姉の細い呼吸。
それも少しづつ小さくなり、闇の中に吸い込まれていく。
あんなに忌み嫌っていた姉の目が、暗い、敵意に満ちた目が、今は半開きになって虚空を力なく見つめている。助けを呼ぶ力も、わたしたちを恨む力も、ない。
「さようなら」
ぽろぽろと涙がこぼれた。
悲しいのか、嬉しいのか。
そんなことはどうでもいい。
ただ、解放された。
ひゅっ、と小さく息をすった音がして、夜の闇が全てを奪い去った。
わたしたちは、わたしたち家族は、ただお互いの腕を握って、かすかに震えていた。