夢幻堂
夢幻堂店主が得る力は大きい。むやみやたらに使うことは許されていない。過度に力を酷使すれば神に罰せられ、大きな代償をこうむる。と、セツリは聞いていた。その代償はなんなのかと問いかけたこともあったが、問いかけられた相手は「生きたまま地獄のような痛みに耐えなければならないのです」とにっこり微笑みながら答えただけで、結局なんなのかよく分からない。ただ、自分自身に罰が跳ね返ってくることだけは分かった。
「………カンナは笑ってるのか?」
「は?」
我ながら間の抜けた質問だと思わざるを得ないが、もし過去の記憶を封じ込めたことが罰に値するなら、カンナの身はどうなっているのだろう。夢幻堂店主になにか起こったとは聞いたこともなかったが、いかんせん自分は"狭間の世界"を飛び回っている"夢の渡り人"だ。ほとんどの情報は仕入れているが、漏れがあるのかもしれないと不安になる。……とは、カンナにはとても言えないが。夢幻堂前店主から言わせれば、天の邪鬼な性格であるのだ。
「正直、俺はカンナの拾い物に不信を抱いた。お前が知っているかは知らねぇが、夢幻堂店主は力を得る代わりに、すべての痛みをも受けとめなきゃならねぇ。誤って力を使えば、その代償は自分へ還る」
「俺を拾ったことで、カンナがなにか罰を受けたんじゃないかって、そう言いたいわけか」
「ああ」
なにも混ざれない、厳しい黒色の双眸がシオンをまっすぐに射抜いた。カンナが話してくれた過去のセツリには、こんなふうに素直に心配している姿はない。けれど隠していただけで、心の中では彼女のことをちゃんと見守っていたのだろう。
主のいない夢幻堂の中は明るい。窓辺や戸棚に置かれた宝物たちが差し込む光にきらきらと煌めき、優しい静寂を保っている。それはシオンがここに辿りついたころから変わらない光景だった。
シオンはふっとそれらに視線を動かし、懐かしむように目を細めた。
「俺はあいつに救われた日から、残りの人生はあいつにくれてやると思った。どんなに永くても、永遠でも、それが俺なりの恩返しだし、俺はそれで幸せなんだ」
それはセツリの問いかけに対しての答えではなかったのかもしれない。けれど、それ以上に伝えたいことなんてシオンにはないのだ。ここにカンナがいて、夢幻堂はいつでも明るい魂の休息所で、ときおり訪れる彷徨った魂たちを受け入れる。それをカンナとともに迎えるのが、いまのシオンにとっての幸せだ。たとえ彼女がここではないどこかへと望むなら、その道を守るためにともについていくと決めた。彼女に拾われて、名前を与えてもらったあの日から、心に誓った自分自身の約束。カンナはそれを知らないけれど、それでいい。だれがどんな風に自分を思おうと、それが偽りのない自分の真実だ。
剣呑の色を帯びていた二色の双眸が、おだやかな眼差しに変わるのをセツリは満足そうに眺め、口の端をつり上げて笑った。
「…………本当に、アテにならねぇやつらだな」
「え?」
「いやいやこっちの話だ。試すようなことして悪かったよ、シオン。カンナもお前がいて救われたんだな」
「……そんなこと俺に言われても」
突き刺さるような視線と威圧感が、彼からすっかりなくなったことに拍子抜けする。いったい何が彼の緊張を解いたのか、シオンにはまだよく分からなかった。一応、自分は邪魔なんかではないのだと分かっただけだ。
「結局、俺はあんたをセツリと呼んでいいのか?」
「ああ──、そんな話だったよな、そういえば。べつに俺はなんだっていいぜ。セツリだろうが"夢の渡り人"だろうが」
散々引っ張っておいて「なんだっていい」とはなんだ。困惑してただけの自分が馬鹿みたいではないか。シオンは若干憤慨しつつも、カンナが話す過去のセツリも話をはぐらかしてからかう姿ばかりだったのを思い出し、ため息をつく。カンナにどうにもならないなら、自分がどうこうしたってきっと無駄だ。割り切ったほうが早い。
どっと疲れた気がしたシオンは、セツリとは反対側のソファーにどっかりと座る。いまさら黒猫姿に戻るのもなんなので、もとの姿のままだ。あまり長い間もとの姿でいることもないせいか、なんとなく落ち着かない。細く長い指を自分の黒髪に埋めていじる。ふと前を見れば、セツリも足を組んだままぼんやりと虚空を見つめていた。彼も手持ち無沙汰のようだ。
「カンナが帰ってくるまで待つのか?」
「最初からそのつもりなんだがな。俺はカンナとシオンに用がある」
「でもいつ帰るか分からないだろ?」
「だれに呼び出されてるかは知ってるから、べつに問題はねぇな。そんなに長い時間じゃないはずだぜ。……って、なんだ? あいつがどこに行ってるのか知らねぇのか?」
「興味ない。カンナがここへ戻ってくることが分かってればいい。どっちみち俺は外には出られないんだ」
「ああ……そういやそうだよな。ここは店主以外は外に出たらイキモノたちに喰われちまうんだった」
シオンの答えにセツリは独りごとのように呟く。
「セツリもカンナになにか渡しにきたのか?」
「俺も?」
「つい最近、カンナに渡したいものがあるってやつが来た。たしか……"流浪の行商人"って言ってたな。あとカンナがヨウって呼んでた。セツリも知ってるんだろ?」
シオンの言葉にセツリはわずかに目を大きくして上体を起こしかける。けれどぼすっと元に戻ると、低く唸った。
「────瑛が? へえ……あいつがね。てことは"虹の羅針盤"はカンナの元に戻ったんだな」
低く呟かれた響きからはあまり感情は読み取れない。いいことだと思ったのか、意外だったのか、はたまたセツリに良くないことだったのか、シオンにはよく分からなかった。黙ったままセツリを見ているシオンに気付いたのか、苦笑を返したセツリはコートのポケットから何か小瓶のようなものを取り出してみせた。
「俺は瑛とは違ってカンナに返すものを持ってきたんじゃねぇさ。ほら、これだ」
「それは?」
「さっき言ってた瑛の───ってのが前の店主ってことを聞いたのかどうかは知らねぇけど、そいつが凍らされたカンナの心を溶かすために使ったモンだ」
さらりとなんでもないことのようにセツリは言う。
「凍らされた? ……って、あいつが神殺しの巫女って呼ばれてたときにか?」
「それも聞いたのか。なら話は早いな」
「カンナがこの前話してたんだ。帰る場所も、なにもなかったって……」
「ああ。笑うどころか、自分に心があることさえ知らなかったんだよ。憐れだっつーのは簡単だけどよ、そんなものカンナには響かねぇ。心そのものを封じ込められちまってたんだからな。それを取り戻すために瑛は《淡雪の花びら》を使った」
カンナがつい最近話してくれた、彼女を苛む昏く絶望にまみれた過去。背負わなくていいはずの罪を、彼女はまだ忘れることができないでいる。
「………赦されていいんだ。赦されないわけがないんだ。だってカンナが負うべき罪じゃない。たしかにカンナは罪を犯したのかもしれないけど、それはもう赦されたっていいんだ」