みつひら
手には年齢が出るのよ、と母親が口にしていた言葉を思い出しながらシグは大きな眼で、ある男の手を見ていた。きっと、仕事をした分の年齢が出るんだ、と思う。だから彼の母の手はちょっと乾いてたり、びっくりするほど冷たかったりするのだ。
そして、シグの両親よりずっと若いのに傷やまめが多いクインシーの手は彼がここでどれだけ仕事ばかりしているかがわかる男の手だった。
「クインシー、なにしてるの?」
「さん」
問いかけの答えになってない、と思いながらシグはもう一度口をひらいて
「クインシーさん、なにしてるの?」とたずねた。
「飛びたいやつのために、羽根を作ってんだよ」
「今時めずらしい人もいるんだね」
丁寧に白い羽を骨組みに埋め込んで答えたクインシーに、シグが思った通りの言葉を返すと、ゴーグル越しに緑の目がシグを見た。
「隣の今流行りなサイクルショップにお前を叩きこんでも良いんだぞ、シギスムンド」
そう言っている間にも驚くほど早く、綺麗に羽は埋め込まれて羽根の一部になっていく。前に学校で先生から出された裁縫の宿題にシグが悪戦苦闘してるのを見ながら好き放題言っていただけはある。おかげで先生に「少し上手になりましたね」と言われた。それから裁縫の宿題は出されないから、きっとシグの腕前は今頃元通りになっているはずだ。
「やだな、クインシーさん。流行ってないことは自分だってわかってるのに」
カリカリしないでよ、と言いながらシグはクインシーと距離をとる。離れたシグにもう構う暇も惜しいと思ったのか、クインシーは羽根を見つめながらシグにあっちに行ってろ、と言いもせず仕事場の先にある部屋を顎でしゃくった。
「クインシー! もしかして、飛びたいのって天使さんなの?」
「さん」
部屋に行ったと思った次の瞬間足音を響かせて走り込んできたシグに目もくれず先ほどと同じように答え以外の言葉をクインシーが口にする。
「クインシーさん!」
「はいはい、そーだよ。うるせぇな。」
同じ質問をする時間も惜しいように、大声を出した。そんなシグを見ないまま眉根を寄せたクインシーが、軽い舌打ちをする。
シグの言うように、今時羽根で飛ぶことで移動しようとするめずらしい客がいる。客といっても、金を貰うつもりはクインシーにはなかったし、相手もそんなことは考えていないだろう。
「おい、聞こえてんだろ。このうるさいやつの遊び相手でもしてやってくれ」
うるさいって、とまた騒ぎ立てそうなシグの頬を白く細い手が包み込んだ。
手の主は、天使だ。少なくともそれ以外の生き物には、見えなかった。
冬のある日、白い塊がクインシーの家の屋根を壊して落ちてきた。塊もとい天使は人の話す言葉は理解できても、同じ言葉が口にできない。
壊された屋根は近所の腕のいい大工が休みの日だというのに、喜んで直しにきた。元通りどころか、そこだけやたらと綺麗で「腕がよすぎるのも考えもんだ」と苦笑いしたクインシーの背中を、嬉しそうに叩いて去っていった。次の頼みごとも酒のボトルを一本持っていけばよさそうなのは、喜ばしい。
だがそれよりも、大事なことがある。落ちてきた原因か結果かはわからないが、片方の翼が羽をむしられたように貧相になっている。床に少しだけ散らばった羽根を集めても足りないのを見ると、落ちたからというわけではなそうである。
そこで、ちょうどよく講義の終わったらしい学生のバッカスを引っ張り込んだ。
「怪我をしてるのがいる」とだけ言うと、首を振りながら「僕は動物専門なんですよ!」と困り顔をみせた。
結局天使が人か動物かの論争を差し置いて、翼を診たバッカスが言いづらそうに「天使は、飛びますよね?」と問いかけた。
「そんなこと、俺が知るか」
「あぁ、えぇと……。と、飛びますよね?」
クインシーさんに聞くだけむだでした、とでも言いそうな顔に一瞬なった。それからバッカスは、目線を合わせようと少し背を丸めて同じような問いかけをする。頷きが返されて、バッカスは「そう、飛ぶんですよ」と俯きながら口にする。
「……はっきり言わんと、通じないんじゃないのか」
立ち上ってコップに砂糖とミルクをいれながら、そう言ったクインシーの背中をバッカスが見る。それから、少しの間があって煮立った湯をそっと茶葉にかけている時、鼻をすする音がした。
「この子は、あ……この方は、片方の翼が、もう使えそうにないので。と、飛べない、飛べな……」
「わかるか?」
顔を覆ったバッカスにミルクティーが入ったコップを、音がするように置く。天使の薄い色素の瞳が、肩を震わせるバッカスと自分とを交互に見つめる。
「お前な、片方の翼が駄目になっちまってるから、もう飛べないんだってよ」
クインシーがそう告げたのを聞いて、バッカスが小さくしゃくり上げた。その頭を右手でぐしゃぐしゃに撫でる最中に、クインシーは俯いた天使の震える指先を見た。
天使は、背はシグより少しだけ高く、色白で綺麗な顔立ちをしている。ただ、クインシーの祖父が幼いころよく響く声で抱きしめながら話してくれたそれのようではなかった。まばゆいほど輝くわけでもなく、威厳があるようにも見えない。
(こんなのが天からの御使い、か)
そんなことを言えば、ばちが当たる。などと言いそうなシグに聞かれるのも面倒で、呟くのもやめた。
「お前、随分小さいがみんなそんなもんなのか?」
聞くのが早いと思いクインシーが問いかけると、天使は右手の指を二本だけ立てて答えた。
(ふた月、二年、二十年、二百年……)
「天使になってそれだけで、まだ若いってことか」
思いつく限りの年月を思いうかべて、わかりもしないと諦めて指を一瞥して続けて問いかける。そんなクインシーの心情を知ってか知らずか、天使は照れるように笑った。
その数時間後に相変わらずの足音の大きさで駆けてきたシグが、クインシーの職業を好き勝手話した。最近は仕事がない、なんてよけいなことまで言ったシグを放り出したころには、天使が部屋から姿を消していた。
(てめぇがやる仕事でもねぇのに、好きに言いやがって……)
クインシーは頬杖をつきながら、ため息をつく。それでも、仕事場の鍵がないのもその部屋から何か音が聞こえても放っておくことにした。それからすぐ、仕事場に飾ってある本人の体より大きな羽根を天使が抱えてやってきた。
「……あんな目にあって、まだ飛びたいってか」
軽く息をはきながら問いかけるクインシーに、耳慣れない音が聞こえた。顔を上げると、天使の口が開いたり閉じたりしている。
「あー、そうかそうか! わかったからとりあえず、静かにしてくれ」
笛のような、鳥のさえずりのような高い音に耳がやられそうだ、と肩をそっと叩く。心から嬉しそうに羽根を抱きしめて、ぐしゃぐしゃにされそうなのを返してもらったところでクインシーはシグが帰り際に不機嫌そうに言ってきたことを思い出していた。
(どうして羽根職人の俺にまかせとけって言わないのさ、か)
シグの言いたいことは、わかっている。
そして、シグの両親よりずっと若いのに傷やまめが多いクインシーの手は彼がここでどれだけ仕事ばかりしているかがわかる男の手だった。
「クインシー、なにしてるの?」
「さん」
問いかけの答えになってない、と思いながらシグはもう一度口をひらいて
「クインシーさん、なにしてるの?」とたずねた。
「飛びたいやつのために、羽根を作ってんだよ」
「今時めずらしい人もいるんだね」
丁寧に白い羽を骨組みに埋め込んで答えたクインシーに、シグが思った通りの言葉を返すと、ゴーグル越しに緑の目がシグを見た。
「隣の今流行りなサイクルショップにお前を叩きこんでも良いんだぞ、シギスムンド」
そう言っている間にも驚くほど早く、綺麗に羽は埋め込まれて羽根の一部になっていく。前に学校で先生から出された裁縫の宿題にシグが悪戦苦闘してるのを見ながら好き放題言っていただけはある。おかげで先生に「少し上手になりましたね」と言われた。それから裁縫の宿題は出されないから、きっとシグの腕前は今頃元通りになっているはずだ。
「やだな、クインシーさん。流行ってないことは自分だってわかってるのに」
カリカリしないでよ、と言いながらシグはクインシーと距離をとる。離れたシグにもう構う暇も惜しいと思ったのか、クインシーは羽根を見つめながらシグにあっちに行ってろ、と言いもせず仕事場の先にある部屋を顎でしゃくった。
「クインシー! もしかして、飛びたいのって天使さんなの?」
「さん」
部屋に行ったと思った次の瞬間足音を響かせて走り込んできたシグに目もくれず先ほどと同じように答え以外の言葉をクインシーが口にする。
「クインシーさん!」
「はいはい、そーだよ。うるせぇな。」
同じ質問をする時間も惜しいように、大声を出した。そんなシグを見ないまま眉根を寄せたクインシーが、軽い舌打ちをする。
シグの言うように、今時羽根で飛ぶことで移動しようとするめずらしい客がいる。客といっても、金を貰うつもりはクインシーにはなかったし、相手もそんなことは考えていないだろう。
「おい、聞こえてんだろ。このうるさいやつの遊び相手でもしてやってくれ」
うるさいって、とまた騒ぎ立てそうなシグの頬を白く細い手が包み込んだ。
手の主は、天使だ。少なくともそれ以外の生き物には、見えなかった。
冬のある日、白い塊がクインシーの家の屋根を壊して落ちてきた。塊もとい天使は人の話す言葉は理解できても、同じ言葉が口にできない。
壊された屋根は近所の腕のいい大工が休みの日だというのに、喜んで直しにきた。元通りどころか、そこだけやたらと綺麗で「腕がよすぎるのも考えもんだ」と苦笑いしたクインシーの背中を、嬉しそうに叩いて去っていった。次の頼みごとも酒のボトルを一本持っていけばよさそうなのは、喜ばしい。
だがそれよりも、大事なことがある。落ちてきた原因か結果かはわからないが、片方の翼が羽をむしられたように貧相になっている。床に少しだけ散らばった羽根を集めても足りないのを見ると、落ちたからというわけではなそうである。
そこで、ちょうどよく講義の終わったらしい学生のバッカスを引っ張り込んだ。
「怪我をしてるのがいる」とだけ言うと、首を振りながら「僕は動物専門なんですよ!」と困り顔をみせた。
結局天使が人か動物かの論争を差し置いて、翼を診たバッカスが言いづらそうに「天使は、飛びますよね?」と問いかけた。
「そんなこと、俺が知るか」
「あぁ、えぇと……。と、飛びますよね?」
クインシーさんに聞くだけむだでした、とでも言いそうな顔に一瞬なった。それからバッカスは、目線を合わせようと少し背を丸めて同じような問いかけをする。頷きが返されて、バッカスは「そう、飛ぶんですよ」と俯きながら口にする。
「……はっきり言わんと、通じないんじゃないのか」
立ち上ってコップに砂糖とミルクをいれながら、そう言ったクインシーの背中をバッカスが見る。それから、少しの間があって煮立った湯をそっと茶葉にかけている時、鼻をすする音がした。
「この子は、あ……この方は、片方の翼が、もう使えそうにないので。と、飛べない、飛べな……」
「わかるか?」
顔を覆ったバッカスにミルクティーが入ったコップを、音がするように置く。天使の薄い色素の瞳が、肩を震わせるバッカスと自分とを交互に見つめる。
「お前な、片方の翼が駄目になっちまってるから、もう飛べないんだってよ」
クインシーがそう告げたのを聞いて、バッカスが小さくしゃくり上げた。その頭を右手でぐしゃぐしゃに撫でる最中に、クインシーは俯いた天使の震える指先を見た。
天使は、背はシグより少しだけ高く、色白で綺麗な顔立ちをしている。ただ、クインシーの祖父が幼いころよく響く声で抱きしめながら話してくれたそれのようではなかった。まばゆいほど輝くわけでもなく、威厳があるようにも見えない。
(こんなのが天からの御使い、か)
そんなことを言えば、ばちが当たる。などと言いそうなシグに聞かれるのも面倒で、呟くのもやめた。
「お前、随分小さいがみんなそんなもんなのか?」
聞くのが早いと思いクインシーが問いかけると、天使は右手の指を二本だけ立てて答えた。
(ふた月、二年、二十年、二百年……)
「天使になってそれだけで、まだ若いってことか」
思いつく限りの年月を思いうかべて、わかりもしないと諦めて指を一瞥して続けて問いかける。そんなクインシーの心情を知ってか知らずか、天使は照れるように笑った。
その数時間後に相変わらずの足音の大きさで駆けてきたシグが、クインシーの職業を好き勝手話した。最近は仕事がない、なんてよけいなことまで言ったシグを放り出したころには、天使が部屋から姿を消していた。
(てめぇがやる仕事でもねぇのに、好きに言いやがって……)
クインシーは頬杖をつきながら、ため息をつく。それでも、仕事場の鍵がないのもその部屋から何か音が聞こえても放っておくことにした。それからすぐ、仕事場に飾ってある本人の体より大きな羽根を天使が抱えてやってきた。
「……あんな目にあって、まだ飛びたいってか」
軽く息をはきながら問いかけるクインシーに、耳慣れない音が聞こえた。顔を上げると、天使の口が開いたり閉じたりしている。
「あー、そうかそうか! わかったからとりあえず、静かにしてくれ」
笛のような、鳥のさえずりのような高い音に耳がやられそうだ、と肩をそっと叩く。心から嬉しそうに羽根を抱きしめて、ぐしゃぐしゃにされそうなのを返してもらったところでクインシーはシグが帰り際に不機嫌そうに言ってきたことを思い出していた。
(どうして羽根職人の俺にまかせとけって言わないのさ、か)
シグの言いたいことは、わかっている。