ライドガール
五 覚悟
しとどに体を濡らすのは、夏へと一日近づくための優しい春の雨ではなかった。季節を引き戻す冷たい雨だった。手綱を握る指先は手袋の中で冷え切って、すでに感覚が薄い。
けれども、リウの心を冷え冷えとさせている理由はもっと他にあった。
――負けた。
雨の先にぼんやりと灰色にけぶって見えるルォーグの町並みを見つめながら、リウは唇を噛みしめる。
――わたしのせいだ。
降りしきる雨と起伏が激しいルォーグの競路に、前を行く馬と乗手の姿は見つけられない。もしかしたらもうルォーグの町の中に入って、この雨をも跳ね返すような歓声の中、最後の走りを見せているのかもしれない。
中継地でランダットから旗棒を受け取ったとき、リウとバルメルトウは二位だった。しかも一位との差は五馬身あるかどうかといった接戦だった。まだ馬から下りていない一位の組の二走の乗手のさりげない妨害をかわして、リウは中継地を飛び出した。
ぴんとまっすぐ前を向いた両耳を見るまでもなかった。こんなとき、バルメルトウがどうしたいか、リウはよく知っている。バルメルトウは自分の脚に誇りを持っている。自分の前を行く馬を許すことはない。すぐに追いつき、追い抜いて、相手の馬を打ち負かしてやりたがる馬なのだ。
だが、すでに地面は雨にぬかるんでいた。
すぐ前に見える馬にむきになっているバルメルトウが、濡れた下り坂で蹄をすべらせることを、リウは怖れた。
「まだだよ」
リウは手綱を引いた。
「まだここじゃない。いい子だから、おまえの脚を見せてやれる平地がこの先にあるから、いまは我慢して、バルム」
だがバルメルトウは行きたがった。リウの声と手綱に逆らい、好きに走らせろと訴えた。
いい子だから、お願いだからと、リウは懇願した。
それでも前を行く馬を見てしまったバルメルトウは、リウの頼みを聞こうとしなかった。鞍の下の馬体がいつになく強ばったかと思うと、ふっとその走りから力が抜けた。
平地になってリウが合図をしても声をかけても、バルメルトウはもはや応えなかった。自分は走らされている、そんな態度だった。追い立てようとすると、頭を振って逆らった。
こうなってしまっては、バルメルトウが脚を止めないことをよしとするより他になかった。一位の馬からは離され、後から来た三位の馬にまで抜かれた。
ルォーグの広場に到着し、鍔広帽を取ったリウが女であることに気づいた観客が改めて拍手を贈ってくれても、リウはそれに気づけなかった。うつろに完走のリボンを受け取り、おずおずとバルメルトウに顔を向けた。
「……バルム」
いっそう黒みを帯びたバルメルトウの深い色の目は、リウを見ようとしなかった。
雨のむこうの道に騎影が見えた。マントを深く合わせ、軽くうつむいている乗手の顔はわからないが、高々と首をあげた馬の輪郭は見間違えようがない。リウは歩み寄った。
「リウ、どうしたんだ?」
雨粒の落ちる帽子の鍔をあげて、シャルスが驚いた顔を見せる。
リウは帽子もかぶらず、マントもつけず、ずぶ濡れだった。
「ごめん、シャルス。三位だった」
シャルスには一瞬の迷いもなかった。彼はいつもの微笑を浮かべた。
「そう。また次だね」
「わたしのせいなんだ。わたしが、バルムと喧嘩しちゃったから。わたしが上手く乗りさえすれば、少なくとも二位だったはずなんだ。そうしたらもう〈大天馬競〉への出場権が獲得できたのに。わたしのせいで」
「そんな日もある。きみを責めようなんて思わないよ」
「わたしは責めるよ」
シャルスは馬を滑り降りると、自分のマントをリウに着せかけようとした。
リウはかぶりを振り、シャルスの手をよけた。
「先に宿に帰ってて。わたしはランダットを待つから」
「リウ、だったらますますこれは必要だよ。ずぶ濡れでいたら風邪をひいてしまう」
「平気。ちっとも寒くないもの」
「気が張ってるからだよ。こんな冷たい雨に、そんなわけがない」
「本当にいらない。わたしより、バルムを見てやって」
「……わかった」
リウの顔を心配そうにのぞきこんでから、シャルスはまた馬上の人となった。
「だけど、ほどほどで帰ってきてくれ、リウ。先はまだ長いんだ」
「ん、わかってる」
うなずいて、リウはすぐに町の外へと視線を戻した。
それからぽつぽつと何人かの他の乗手が通り過ぎた後、馬と無帽の乗手が見えた。
「お、どした?」
これだけ雨に濡れていても、ランダットの赤毛はたいしてまとまっていなかった。
「ごめん、ランダットさん。三位だった」
「あー」
ランダットは空を仰ぎ、目を細めた顔に雨を受けてから、またリウに向き直った。
「喧嘩した?」
「……はい」
「そ。ま、でも、しょうがないんじゃん? あいつ、割とカッとなりやすいやつだから。リウが手綱を引いてやんなきゃ、転んで脚でも折ってたかもよ」
「……」
「ルォーグの〈天馬競〉が雨だった時点でおれらの負け。ま、次は晴れんじゃない」
ランダットと宿に戻ったリウは、三人で夕食をとった後、すぐに厩舎に行った。
雨はまだ降りつづいている。そうでなくてもすでに日は落ちている時刻だ。灯りはともされていても厩舎は暗く、馬たちの鼻息や身じろぎが聞こえるだけだった。リウはぎゅっと目をつぶり、暗がりに慣らしてからバルメルトウの馬房の前に行った。
バルメルトウの気配はあるが、馬房から顔は出てこなかった。
やっぱり怒ってる、とリウはため息をついた。
「……バルム」
声をかけても、馬房の中の気配はまったく動かない。
「ごめん。自分でもわかってるんだ。あれくらいの道だったら、おまえなら走れてた。そのまま前の馬をつかまえて、抜いたはずだよね……だけどふっと考えちゃって」
リウは馬房の柵に手を置き、つかんだ。
「もしおまえが、ううん、そんなことはないだろうけど、それでももし、もし脚をすべらせたらって。そうなったらおまえがどうなるかも怖かったし、それに」
ひとつ息を入れ、目をつぶり、それでもリウは苦い真実を口にした。
「わたしもどうなるか、それが怖かった」
走っている馬が体勢をくずした場合、おかしな具合に無理な力がかかった脚が折れることは決して珍しくはない。
と同時、乗手も無事ですむことは少ない。放り出されて地面に体を打ちつけるだけならまだいいほうで、馬の首を越えてその前に落ちることになる乗手には、直後に人の一〇倍近い重さの馬体が迫ることになる。馬にもよける余裕などない。硬い重い蹄で蹴飛ばされるか、踏みつけられるか、悪くすれば馬の全体重がのしかかってつぶされることもある。
といって、鞍から落ちなければ無事というわけでもない。馬が転べば間違いなく下敷きとなるため、むしろ危険度は増す。また、鐙に足がひっかかって中途半端に落ちれば、今度は頭を幾度も地面に激突させることになりかねない。
リウは牧の娘に生まれ、育ってきた。毎日馬に乗り、ときどきは落馬した。打ち身などけがのうちに入らないと思っている。
それでも雨の坂で感じた落馬への恐怖は大きかった。