ライドガール
一 駆ける
早く。早く、早く、早く。
心の中で祈りながら見つめる早春の大地に、陽炎にも似たかすかな土煙が現われた。リウはとび色の目をさらに大きく見開いた。
斑毛の馬が、若草に覆われた稜線を越えて懸命に駆けてくる。
「早く!」
リウは祈りを声に出し、胡桃色の髪を押し込んだ鍔広帽をしっかりとかぶり直した。
マントの襟もとに巻いたくたくたの風防布(カーチフ)に、履き古したブーツ。そんな出で立ちのリウを十三歳の小柄な少年と思う者はいても、十七歳の娘だと見抜く者は多くはない。
出番を察した馬が、鞍下で軽やかに足踏みをはじめる。
リウはその首を平手で軽く叩いてやる。
「バルム、行くよ」
リウは首の風防布を鼻の上まで押し上げた。大地を駆ける準備は整った。
口端に泡を浮かべた斑毛の馬がやってくる。帽子と風防布で目しか見えない乗手が腕を伸ばす。その手に握られているのは、端に色あざやかな幾本もの細布を結んだ旗棒だ。
リウも懸命に手を伸ばす。まだ遠い。旗棒には届かない。わたしの腕が男くらい長ければ――そんな願いがちらりとよぎるが、女、それもどちらかといえば小柄な生まれつきを、いまさら変えられるわけもない。与えられたものを嘆くよりも、それをどう使うかだ。リウは低く作るのが癖になった声を乗手にかけた。
「ご苦労さま!」
震えはじめた手に旗棒を握ると同時、リウは愛馬バルメルトウの腹を蹴った。まっすぐ行く手を見据える。
今日のために念入りに梳いたバルメルトウの漆黒の体は、この中継地に来るまでの風と土埃とで、いまは輝きを失っている。だが、その下の筋肉の見事さは決して損なわれることはない。馬は力強く駆けてゆく。
旗棒を背中側のベルトのすきまに刺し、愛馬の疾走の邪魔にならないように鐙の上に立ち上がりながら、リウは顔をゆがめる。
びゅうびゅうと体にぶつかって、鞍からリウを引きはがそうとする風のせいではない。
チェクの町が主催する今回の〈天馬競〉(キーノ・ノウル)には、二十一組六十三騎が出走した。
三頭の馬と三人の人がひとつの組となって速さを競うこの競技は、どこでもすることは変わらない。日が十分に昇ったころに町を出発する一走騎は六リーグの距離を駆け、昼ごろに第一の中継地で二走騎に旗棒を渡す。二走騎も同じように六リーグを走り、そして第二の中継地で旗棒を受けた三走騎がまた六リーグを走り、計六時間かけて町の広場へ戻る。
だが、もちろんすべての組がその時間で走るわけではない。
すでに日は傾いて、十九組がこの中継地を出発している。まだ来ない一組は手前の沼地で馬の脚を傷めて棄権したと別の組の乗手が伝えており、係員が様子を見に行った。
リウたちは文句なしの最下位だった。
最後まで最善を尽くそうとする心に、先に行く馬があげる土煙すら見えないむなしさが立ちこめていく。
リウは風防布の下で唇を噛みしめた。
町並の手前、地毛なのか土埃なのか、白びた馬が半ば歩くように走っている。リウはバルメルトウの首をぱんと叩いた。
原野を六リーグ駆けてきたリウの愛馬は、なお力を失っていなかった。その脚に伸びが加わり、くたびれきった馬と乗手の姿がぐんぐんと近づいた。バルメルトウは漆黒の風のようにその傍らを走りすぎ、そのまま音高くチェクの町の石畳を駆け抜けた。
だが、広場の飾りつけはすでにはずされかかっていた。〈天馬競〉を見物する観客よりも、片付けの人間のほうが多かった。彼らはリウたちの姿に妙な同情と感心を露わにした。
「お、まだ戻ってきたのがいるぜ」
「ひょろひょろの馬だなあ。乗手がちびとはいえ、よく無事に走り通したもんだよ」
笑われるほうがまだましだ――そんな思いを噛みしめながら、リウはバルメルトウの首をまた叩いた。馬を元気づけるというより、自分自身を鼓舞するためだった。リウの馬は頑丈な骨としなやかで強い筋肉を持っていたが、馬体は牝馬並に華奢に見え、漆黒の毛はもっさりと厚く、脚も不釣り合いに長い印象を与えて、見栄えは決してよくはなかった。
広場で待っていた係員は、リウが鞍を下りるより早く、声をかけてきた。
「ランダルム組かい?」
風防布をひきさげるリウに、係員はさっさと水色のリボンを押しつけた。
「完走おめでとう、十九位だ。また来年、チェクの〈天馬競〉への参加を待っているよ」
一騎は抜いた。だが、十九位だろうが二十位だろうが、リウにとっては同じことだった。
一位、せめて二位までなら意味がある。副賞もさることながら、一位の金糸か二位の銀糸のリボンを二本手に入れた組は、秋の〈大天馬競〉(トウ・キーノ・ノウル)に出走する権利を得るからだ。そこで五位までに入って天馬の称号を受けることはもちろん、出走そのこと自体が、この国で馬に関わるすべての者にとって最大の名誉と見なされている。
しかし、金糸銀糸の入らないリボンは、ただ三騎が完走したというにすぎない。
専門に馬を育てているわけでもない人間が集まって出走した組なら、完走だけでも十分な名誉と土産話になるかもしれない。だが、リウにとってはそうではなかった。
「……ありがとうございました」
それでも係員にリウは礼を述べ、旗棒を差し出した。ちょうどそこへ二十位の馬が入り、係員はあわただしく旗棒を受け取ってリウのそばを離れた。
リウはおとなしく待っていたバルメルトウの鼻面をそっとなでた。
「すぐ、水をあげるからね。体を拭いて、それからもちろんご飯もあげるよ」
あたたかな鼻面に頬を寄せる。
「お疲れさま……ごめん、バルム」
無造作に髪を束ね、宿の厩舎で馬の世話をしていたリウは、人の気配に振り向いた。
昨日、同じ組として〈天馬競〉を走ったふたりの男がそろっていた。
「おはよう」
昼過ぎだったが、まだ起きて間もないに違いない相手に、リウはそうあいさつする。
「この子たちなら、ちゃんと体を拭いて櫛もかけといたよ。飼葉食いもよかったし」
二頭の馬が、飼主の気配に気づいて馬房から顔を出した。
明け方近くにくたびれた顔で戻ってきて、不機嫌そうに食事をがつがつ食べてから爆睡していたふたりの男に代わり、朝からずっとリウが彼らの馬の世話をしている。
安宿には客の馬の担当などいない。新しい替藁があるだけましなほうで、昨夜バルメルトウの世話をしたのもリウ自身だった。終えるころにはすっかり夜になっていて、夕食を口にする気力もなく、リウは自分の髪を梳かしもせずに宿のベッドに倒れこんだ。だが、十分に眠ったと思える前に、彼らの到着で起こされた。
彼らも疲れは抜けきってないのだろう。不機嫌そうな顔で、いきなり言った。
「礼金はなしかい?」
〈天馬競〉に出走する組の内訳は、すべてが気心知れた三人というわけではない。三頭の馬と仲間を集められなかった者同士が、幸運を祈ってその場で組むこともままある。その際、期待薄な者と組む見返りとして、報酬を求める者もいる。
見栄えの悪い馬と女の乗手。組む相手としては最悪の条件であるリウには、そうした助っ人気分の者しか見つからなかった。
「礼金なんてとっくの昔、あなたたちが休む前に払ったじゃない。忘れた?」