ともだちのしるし
ある光景「三日間」
一日目――
美胡は何かを感じた。誰かに見られているような感覚に、その方向を見上げた。当然誰かがいる筈もなく、オレンジ色に染まる空と、時折そよぐ風に木が揺れているのが見えただけだった。不思議そうに首を傾げた後、美胡はまた神社の床下に視線を戻した。
その視線の先には、うずくまる子犬がいた。その子犬は土で茶色く汚れていたが、肌に近い部分は白い奇麗な毛で覆われていた。首輪は付けておらず、野良のようだった。
「お母さんとはぐれちゃったの?」
美胡は手を伸ばし、子犬の頭を撫でる。子犬は警戒する様子もなく、その優しい手を受け入れていた。
まだ秋の入り口とはいえ、一人では寒くて死んでしまうかも知れないと思った美胡は、
「ちょっと待っててね。ちゃんと待ってるんだよ」
そう言ってからもう一度頭を撫でて、石段を駆け足で降りていった。
暫くして、美胡が戻って来た。ランドセルは背負っておらず、手には濡れたフェイスタオル、バスタオル、ミネラルウォーターのペットボトルを持っていた。
「あ〜、タオルが冷たくなっちゃった」
お湯で濡らして来たのだが、着いた頃には大分冷めてしまっていた。そのタオルを開き、温かい部分で子犬を拭いた。徐々に、本来の白い毛並みに戻っていった。
バスタオルを敷いて、その上に子犬を乗せる。柔らかい感触が気に入ったのか、伏せをしたり、寝転んだり、自分の匂いを付けている。
「あ、どうしよう」
ペットボトルの蓋を開けたものの、入れ物を持って来ていなかった事に気付いた。仕方なく美胡は、自分の手の平に少しあけ、子犬の口元に寄せた。子犬は鼻をヒクヒクと動かし匂いを嗅ぐ。水は、小さな指の間から土の上へと零れていき、飲む前に全て無くなってしまった。もう一度手の平に入れる。同じように匂いを嗅いで、今度は小さい舌を覗かせながら、不器用に飲んでいった。
飲み終わると、美胡は子犬を抱いて頭を撫でる。子犬もお礼を言うように美胡の顔を舐めた。
「くすぐったいってば」
暫くの間、神社の境内は美胡と子犬だけの空間となっていた。
「明日も来るから、ちゃんと待ってるんだよ」
美胡はそう約束し、家路につくのだった。
二日目――
美胡は、首に掛けられたマンションの鍵を取り出すと、鍵穴に差し込んだ。ドアを開け、誰もいない家に入る。両親が共働きの美胡にとっては、それが当たり前の日常となっていた。この後、大抵は近所の友達と遊ぶのだが、ランドセルを自室に置くと、入れ替えに母の手作りのトートバッグを手に取る。それに台所のスープ皿を入れ、足早に家を出た。
途中のコンビニでドッグフードの缶詰とミネラルウォーターを買った。これで今月の小遣いは使い果たしてしまったが、トートバッグに手を入れてその存在を確認すると、美胡は満足そうな顔で約束の場所に向かった。
神社の床下には、あの子犬がいた。バスタオルの上に寝そべっている。美胡の足音を聞くと、顔を上げて床下から姿を見せた。白い尻尾を左右に振り、美胡の足元で喜びを表している。
「待っててくれたんだね」
美胡も嬉しそうに、持って来た缶詰を開けて子犬の前に置き、その横にミネラルウォーターの入ったスープ皿を置いた。子犬は二、三度匂いを嗅いだ後、貪り付くように御馳走を平らげていく。
美胡は食べる様子を見ていたが、気付いたように立ち上がった。境内を歩き回り、手頃な枝を拾うと子犬の元に屈んで、土のキャンバスに絵を描き始めた。
子犬は、空になった缶詰とスープ皿には興味が無くなった様子で、動く枝を目で追っている。
「描けた!」
その絵は、目の前で"お座り"の姿勢で美胡を見つめている子犬だった。
「これは……あ、まだ名前を付けてあげてなかったね。う〜ん……」
子犬の喉を指先で撫でる。白い毛並みが、美胡の指に滑らかに絡む。
「そうだ、毛が白いから"シロ"がいいね。これはシロの絵だよ」
三日目――
授業参観の後の、母親との帰り道。美胡は、シロが待っている神社へ母親を連れて行く。
「ほらほら、ママこの子だよ!」
神社のいつもの場所で待っていたシロが、駆け寄って来た美胡の胸に飛び込んだ。ようやく石段を上ってきた母親は、美胡の顔を舐めているシロを見た。
「うわー、随分小さい子犬ねえ」
「シロって名前だよ。美胡が付けてあげたの」
「シロっていうの? 多分この子、産まれてから半年も経ってないんじゃないかなあ?」
美胡に抱かれたシロを撫でながら、そう言った。
「美胡よりもおっきい?」
「美胡よりはちょっと小さいかもね」
「そっかあ。じゃあ、美胡の方がおねえちゃんだね!」
"お姉ちゃん"という響きに、美胡はくすぐられた。
「シロちゃん、美胡がおねえちゃんだよ」
そう言ってシロを抱きしめた。シロも愛情を精一杯返そうと、尻尾を振りながら美胡の顔を舐める。
「あ、そうだ」
美胡はスカートのポケットから、緑のリボンに通された鈴を取り出した。昨晩、家にあった物で作った、即席の首輪だった。シロの目の前で夕日を浴びる金色の鈴は、揺れる度にその色を変化させた。
チリリン、と澄んだ音色と共に、シロの首に巻かれた。
「はい、これで友達だよ。シロ」