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ともだちのしるし

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四月二十六日(月)「見えない心」



 美術室には、二人が向かい合わせに座る四人用のテーブルが、横に四卓、縦に三卓、全部で十二卓並んでいる。テーブルで、木を削る音をテンポ良く響かせている人。窓際で、イーゼルに立てられたキャンバスに色を乗せている人。新入部員二人を加えた私以外の九人は、思い思いの場所で制作に取り組んでいる。私は、黒板から見て一番後ろの廊下側にあるテーブル。さらにその隅の、ドアに一番近い椅子に座っている。そのいつもの場所で、目の前の水彩紙をただ眺めていた。
 部活中、何度目を向けたか分からない、黒板の上の掛け時計。どこの学校にもあるような丸くて白い文字盤に、黒いインデックスと針が、午後五時四十八分を示している。あと十分程で今日の部活が終わるのに、隣の椅子はテーブルの下に収められたままだった。
 もう来ないのかな……。そうだよね。怒鳴っちゃったし、公園でもあんな別れ方をしちゃったんだから。私のせいだよね。白ちゃんも、絵を駄目にしてしまった事が後ろめたいのかも知れない。
 だけど、この静かさは以前のように戻っただけなんだよね。白ちゃんが見学に来始めた頃、帰って欲しい、もう来ないで欲しいと思っていた。隣に白ちゃんがいないのは静かで良いはずで、自分が望んでいた事だったのに……。それなのに、その空間は凄く広く感じた。隣の椅子が遠く感じた。水彩紙、時計、それとドア。その三つを交互に、繰り返し、繰り返し見ている内に、こんなにも時間が過ぎてしまっていた。
 私は、出来るならもう一度あの絵を描きたいと思っていた。同じものにならないのは分かっていたけど、まだ"描きたい"という気持ちがあった。イメージが憧れの人だからかも知れなかった。これも、もう何度試したか分からない事だけど、もう一度心の中に目を向けて、自分の想いを探しにいった。
「……はぁ」
 短くも深いため息をつく。やっぱりそこには何も見えなかった。真っ暗だった。
 私は、私の心を描く。心に浮かんだものを表現するだけ。そして、心に見える時は私がそれを描きたい時。心に何もない時は、絵を描きたくない時。ずっとそんな感じで描いてきた。
 今、私は"描きたい"と思っている。心に何もないのに描きたいと思っている。描きたいのに心が見えない。自分の中でどう対処したらいいのか全く解らなかった。空っぽの心を表すように、目の前の水彩紙には線一本、点一つさえ描く事が出来ずにいた。
 突然のざわつきに顔を上げると、部員達が片付けを始めている。時計は、午後六時五分を少し回っていた。隣の席は、最後まで広くて、遠くて、淋しいままだった。
「どう? 美胡」
 片付けを終えた愛華ちゃんが聞いてきた。その問いの意味は解っていたし、愛華ちゃんも私の答えを承知しているかのように、真っ白の水彩紙に目を落としている。
「全然駄目だ」
「そっか……。んー」
 何か考え込むように腕を組んだ後、指を鳴らした。
「よし、あそこに行ってみようか。ほらほら、片付けて」
「え? う、うん」
 絵の具を使っていないから、簡単に片付いてしまった。何も乗っていないテーブルは、今の私の心のように空っぽに見えた。


「ほら、早く早く!」
「ちょっと待ってよ、どこに行くのー?」
 鞄を持って、昇降口を出て右に折れる。そのまま、コンクリート色の校舎沿いに駆けていく。右手に職員室と保健室の窓を見ながら、どこに連れて行こうとしているのかが、何となく分かった気がした。
 このまま真っ直ぐ行けば、桜並木の終わりに校門がある。でも愛華ちゃんは、校舎が途切れた所で右に曲がった。そこで確信に変わった。右に曲がると直ぐに、校舎と体育館を結ぶ渡り廊下ある。地面に簀の子が敷かれ、その上にアーケードのような屋根があるだけだから、外からでも簡単に通り抜ける事が出来る。その簀の子を飛び越えた先で、愛華ちゃんが立ち止まった。
「ふぅーっ。丁度、終わった所、みたいだね。あー疲れた」
 荒い息で、途切れ途切れにそう言った。私は両手を膝に乗せて、呼吸と熱くなった体を落ち着かせながら、右前方に四角く囲われた緑色のフェンスに目を向ける。その内側には二面のテニスコートがあった。真新しい青いジャージ姿の生徒が、ボールの入った籠を持ってフェンスを出た所だった。
「青いジャージか。一年生だね。ほら、あそこに座ろ」
 体育館の壁沿いにある、二脚並んだベンチを指差した。このベンチは去年の秋頃に設置されたものだ。体育館の反対側、桜並木を挟むようにして、園芸部が管理している園庭がある。緩やかなS字を描く石畳の歩道が園庭を二つに分けていて、それに沿った花壇と背の低い木々たち。生徒達の憩いの場になっていて、人気の昼食スポットでもある。その歩道にある十脚のベンチの内、二脚がここに移動された。
 その理由は、藤ノ宮さんらしい。彼女を見ようとする生徒達が、フェンスに手を掛け部活の邪魔にならないよう、体育館脇に移動されたんだと聞いた。今は部活が終わったからか、誰も座っていない。私もこの一年間で、何度かテニスコートに行った事はあるけど、それでも校舎の脇から覗くのが精一杯だった。だから、実際に座ったのはこれが初めてだ。
 誰もいないテニスコートが真正面に見える。コンサートのアリーナ最前席って、こんな感じなのかな? その緑のステージに、藤ノ宮さんを思い浮かべてみた。サーブでボールを投げる姿が、マイクを高く掲げるアーティストのように見えた。
「ど、どうして、ここに?」
 アリーナ席の座り心地に慣れてきた頃、当然湧いていた疑問を投げる。
「んー? 何か掴めるかもって思ってね」
 それが、"絵を描けるようになるための何か"なんだと直ぐに理解出来た。こんな所に来たら、また緊張するだけのような気もしていた。でも、自分で突破口が見付けられない以上、愛華ちゃんに頼るしかなかったし、その気持ちが素直に嬉しかった。
「そろそろかなー?」
 テニスコートの向こう側には、校舎と並ぶように運動部の部室棟がある。二階建ての、校舎と同じコンクリートの打ちっぱなしで、二階へ上がる外階段が設置されている。フェンス越しのベンチからは良く見えないけど、その部室棟からざわめきが聞こえてきた。
 制服に着替えたテニス部員がやってくる。吹奏楽部に次いで人数の多いテニス部。その人混みの中で、私の目は当然藤ノ宮さんを探していた。
「お、まなかぁー! 美胡ちゃーん!」
「お疲れー!」
 クラスメイトと挨拶を交わす愛華ちゃん。私も控えめに手を振る。
「もしかして、出待ち?」
「まあ、そんなとこ」
 出待ちだなんて……。沈めたばかりの顔が、また熱くなるのを感じた。
「そっか、もう来ると思うよ。じゃあねー!」
 校門に向かう部員達の流れの中に、その人がいた。
(き、来た!)
 そんな必要はないんだろうけど、思わず背筋が伸びてしまう。
 私立白百合女子高校の制服は、結構可愛いと評判らしい。この制服を着たくて入学してくる生徒もいると聞くから、それは間違いないのだと思う。実際、私も可愛いと思っている。
作品名:ともだちのしるし 作家名:たかゆき