ともだちのしるし
四月二十一日(水)「白の絵」
「――どうぞよろしくお願いします!」
パチパチパチパチパチパチ……。
「よろしく!」
「よろしくねー」
美術室内に拍手の音が響く。これで二人の新入部員だ。目標人数が達成出来て嬉しかった。私の隣で拍手している鈴川さんと目が合って、お互いに微笑んだ。……と、彼女にこんな顔をしたのは初めてかも知れないと思い、ふっと目を逸らしてしまった。
入部したら、こうして部員達の前で自己紹介をする。鈴川さんがそれをしていないという事は、まだ入部届けを出していないという事だった。部活見学が始まってから毎回顔を出しているけど、どうするつもりなんだろう。横に目をやると、夢中になって拍手をしている。入部したなら、一応先輩として迎えるつもりだけど、入部しないのならそれでもいいと思っていた。それは彼女が決める事だから。
「よーし。これで部員が二桁になった。目出度い事だ。見学者諸君も、是非美術部に入部してくれたまえ! さて、新入部員には私から活動の詳細を説明しよう。他のみんなは引き続き作業に戻ってくれ」
部長が、新入部員の二人を準備室へと案内する。各々が自分の作業に戻り、私も下描きを再開する。
「これ、髪が長いからおんなの子?」
私の場合、下描きをあまりし過ぎると、その下描きの線自体が塗りの邪魔になってしまう。その線が壁のような境界線になって、そこで色を止めてしまって、水彩画の魅力の一つ、"滲み"が思うように表現出来なくなる。そんなたった一本の線にすら、私は制御されてしまう。
だからいつも、モチーフの外形や雰囲気、そのモチーフが人物なら何をしているのか等が、何となく分かる程度に薄く描いている。そんなうっすらとした下描きを見て、そこにいるのが"髪の長い女の子"だと分かった鈴川さんに、ちょっと驚かされた。
「あ、良く分かったね。うん、そうだよ。後ろには桜の木があって、風で花びらと髪が舞っている感じかな」
自分の中にあるイメージを伝える。
「わあ〜、楽しみだな〜」
鈴川さんは、もう走り回る事も、他の部員の後ろから覗く事もなかった。ずっと私の隣に座って、本当に静かに見ていて、時々こうして声を掛けてくる。私も集中力を削がれる事もなく、その質問に自然に答えていた。
(美術に興味が出てきたのかな? それとも、私だから……なのかな)
ただ、こうしてずっと見られているというのも恥ずかしい。
「……絵でも描いてみる?」
「え、いいの?」
「あ、うん。見てるだけじゃつまらないでしょ? だから、鈴川さんも描いてみる?」
「かいてみたい!」
私は笑みを浮かべて、水張りされた水彩紙を前に置いてあげた。鈴川さんは、私と目の前に置かれた水彩紙を交互に見て、「いいの? かいてもいいの?」と目をキラキラさせながら繰り返す。絵を描くのはこれが初めてじゃないだろうに、どうしてそんなに喜ぶんだろう。
はたとその動きが止まった。キラキラがなくなって、水彩紙にジッと目を落としている。
「どうしたの?」
「えっと……、何をかけばいいのかな?」
何も分からないとでもいうように、少し赤らめた顔をこちらに向けた。
「何でもいいよ。鈴川さんが描きたいと思ったものを、好きなように描いていいんだよ?」
「好きなように?」
「うん」
「好きなように……好きなように。好きな……」
呪文のように繰り返している。なんだろう、そんな鈴川さんを微笑ましく思った自分がいた。
私も塗り作業に移る。今回の絵は、ブルーとピンクがメインカラー。既に持っているホルベインの透明水彩絵の具と、昨日買ったロイヤルブルーとシェルピンク。特に、ロイヤルブルーの深みと水で薄めた時の明瞭さが、イメージにピッタリだった。他には……ブリリアントピンク、カーマイン、ホリゾンブルー、バンダイキブラウン……、頭の中にある色を選んでいく。あとは、その時私の中に浮かんだ色を加えていこう。
鈴川さんはというと、ずっと水彩紙を見つめたまま、まるで何かのオブジェのようにじっと考えていた。考えるといっても、オーギュスト・ロダンの『考える人』のように思惟しているというより、目の前に沢山並んだオモチャの中から、どれか一つを選ぶのに悩んでいるといった風だった。同じ"考える人"だけど、その二つの画のあまりの違いに、思わず吹き出しそうになってしまった。
「あ!」
一番好きなオモチャが決まったみたい。鉛筆をギュッと握って、紙の上に黒い線が描かれていく。あ、そんなに力を入れて描いたら、筆圧で水彩紙が潰れちゃう……。声を掛けようとしたけれど、鈴川さんの楽しそうな顔を見たら、それを止めてしまう事の方が良くないような気がして、そのまま見守る事にした。鈴川さんは、どういう絵を描くのだろう。
パレットに出したシェルピンクに続けて、ブリリアントピンク、それとカーマインを出す。筆はホルベインの十号。たっぷりの水を含ませた筆で、水彩紙の桜にあたる部分を濡らす。その水が乾かない内に、水で溶いたシェルピンクを全体的に塗っていく。『Wet-in-wet(ウェット イン ウェット)』という技法。続いてブリリアントピンク、カーマインの順に、同じ技法で塗っていく。こうして塗ると滲みが出て、色同士の境界もぼやけて、私の好きな淡い雰囲気になるんだ。
「うん、いい感じ」
あとはまた描き加えていくとして、たっぷりと濡れた水彩紙をドライヤーで乾かす。次はロイヤルブルー。……なんだか緊張する。
水彩紙を水で濡らしてから、その明瞭な青を、風になびいた長い髪に乗せていく……。
「できた!」
それまで黙々と描いていた鈴川さんが、出来上がった絵を両方の手で表彰状を持つようにかざす。
「出来た? 見てもいい?」
「うん、いいよ」
絵を受け取ると、そこには人物が一人だけ描かれていた。
それは、とても高校生が描いたとは思えない、まるで小学校に入学したての子が描くような絵だった。顔の輪郭や鼻も歪で、腕も左右で長さが違う。何やらがちゃがちゃと描かれた服は、ようやくこの学校の制服だと分かる。お世辞にも上手いとは言えなかった。ただその表情は、口を大きく開けて、両方の目が山の形をしていて、とっても楽しそうな笑顔だった。そして、そこに描かれていたあるものが、私の目を釘付けにした。
「こ、これ……もしかして私?」
「うん! そうだよ」
その顔には、眼鏡が描かれていた。この絵の私は、私にこんなにも笑顔を見せている。私はこの学校に入学してから、こんな風に笑った事があっただろうか。思い返してみても、自分がこんなに笑った姿は私の中には一つもなかった。思い出せなかった。心から湧き出てきたみたいな、本当に楽しそうな笑顔。それが解る。心底に伝わってくる。
「ど、どうして……私を描いたの?」
「だって、大好きなんだもん」
ドクン……!