天秦甘栗 悪辣非道1
「さすがに社長室というものは、良い景色を味わえますね」
そう言って、天宮はその窓に近寄った。チャンスとばかりに河之内はドアの鍵をかけた。
カチャリという音がしたので天宮は振り返ったが、河之内は後手にドアのノブに手をかけている。そして河之内は営業スマイルのまま、つつっと前に進み出た。
「奥さん」
その一言が、天宮の神経をどれ程さかなでするのか河之内は知らない。そして天宮が顔色を変えたことを、とまどいに読み違えてしまった。
「奥さん、あなたはとても聡明で美しい方だ」
なんなんだ、こいつはー、天宮はア然とした。昨晩から練りに練った殺し文句に河之内は自己陶酔して後を続けた。
「秦海とあなたが愛し合っていることは承知の上です。しかし、わたしは一目見た時からあなたを・・・」
そう言いながら、河之内は天宮の前まで進んできた。仕事だ仕事だと天宮は内心で平常心を呼び起こして、「それは光栄ですね」と笑った。
「さあ奥さん、怖がらないで私とめくるめく愛と言葉の世界へ参りましょう」
河之内は、天宮の顔面30cmに近付いた。天宮はちょっと困った。こいつの顔を殴るのは簡単だが、仕事で来たからにはそれはマズイかなと、躊躇したのだ。
「ここは防音がきいています。それに誰も来ません。さあ奥さん」
さらに、河之内は前進しようとした。そこで天宮がニヤリと笑った。
「誰も来ないですって?」
「ええ、あなたとのことを誰にも邪魔されたくなかったので」
それでは問題はない。河之内に口止めすれば済むと、天宮は河之内の頬に平手打ちを一発見舞った。
「おや、私のことはお嫌いですか? 奥さん。でもそんなことぐらいで、私はあきらめませんよ」
平手打ちした手を捕まえて河之内が押さえこんできた。しかし天宮は少しも困らない。スッと身をかがめてヒジでおもいっきり胸に打ち込んで、河之内がたじろいだところへ、すかさず正挙で鳩尾に一発入れ、さらにその痛みで屈んだ河之内の背中に、エルボーを見舞った。ぐえっという声がして河之内は床に倒れ、眼鏡がはじけ飛んだ。
「『奥さん』だって!! 私にそう呼び掛けるなんて100万光年早いわよ!」
そして最後に、ヒールの踵で河之内のふくらはぎを、おもいっきりギュッと踏んだ。ぎゃーっと大声をあげた河之内は、恐怖感を覚えた。ヒールの踵はかなり痛い。それをおもいっきり力を込めて、ふくらはぎを踏まれたのだからたまらない。
「でもー、よかったわよね、河之内さん、私がハイテンションの時で、ちょっとでも下がってたら、あばらの2本も折ってるだろうしー」
そう、幸か不幸か天宮は先程まで本妻と逢っていた。つまり、仕事で高速回転している脳がさらに冴えているのだ。だから、適当な手加減は加えている。
「でも“秦海と愛し合ってる”っていうのも結構腹立つなあ」
キョロキョロと辺りを見回した。河之内に口止めする材料を探していたのだ。部屋の一隅にあるコピー機に眼が行った。これだな、と天宮は河之内に振り向いた。
「河之内さん、コピーのとこまで来て!」
河之内は、おびえてイヤイヤと首を振る。さっきまでの勢いはどこへやら、河之内は早く天宮に出て行ってほしい。
「言うこときいてくれないと、もう片方の足も踏むよー」
パッキーンとガラスの砕ける音がして、河之内は顔を上げた。自分の眼鏡が天宮のヒールの餌食になって粉々になっていた。つかつかと天宮が近付いてきて、倒れている河之内の襟首をつかんで、ズルズルとコピー機の側までひきずって行った。
「ここに顔置いて、河之内」
もう、敬語もなく呼び捨てである。しずしずと河之内はコピーのガラス面に顔を置いた。上から天宮が頭を押さえて、スタートボタンを押した。
押さえ付けられて、ひしやげた顔の河之内の顔が10枚ばかり出て来た。それを河之内の前に差し出して、サインさせた。
「あっ、ついでに自宅の電話番号と携帯もね」
河之内とて男であるから、力で押さえ込もうと思えば、出来ないはずはないのだが、天宮に殴られたショックで頭はパニックになっている。
「今ここであったことは他言無用ね。もし、しゃべったら、これをバラまくからね」
ビラビラと10枚のコピー用紙を天宮が振り回した。どう見ても、河之内が襲われてしまったような光景である。床にべったりと座り込んだ河之内が、力なくうなずいた。
「あっそうそう、協賛金出してね。説明書置いとくから」
書類入れの中から、パンフレットを出して河之内の机の上に置いた。
「それからー」
早く帰ってくれ、と河之内はお願いしたかったが、天宮は出て行く気がない。
「私のことは『天宮さん』と呼んでね。『奥さん』って呼んだら、その度に殴るからー、今日みたいに手加減が入るとは思わないように」
今日で手加減しているというのなら、今度はきっと殺されると河之内はおびえた。
「なんかすっきりしないけど、まあ今日はこのへんで」
やっと天宮はドアの鍵を開けて外へ出て行った。コツコツと足音が遠去かった。フーッと息を吐いて、よろよろと河之内は立ち上がった。天宮を押し倒すことは不可能だと思い知ったが、それでもこれは使えるネタだと河之内はニヤリと笑った。
懲りない男は、不死鳥のごとく蘇ってしまうのだ。痛む足を引きずりながら、次の予定であるレセプションにむかう河之内である。そのレセプションには秦海もやって来る。
作品名:天秦甘栗 悪辣非道1 作家名:篠義