天秦甘栗 用意周到3
控え室に入って深町は、あたふたと用意をさせた。当人はまだ寝ぼけているので、言いなりである。挙式は、とどこおりなく終わった。天宮の父が天宮を連れてバージンロードを歩いている最中に、少々の口ゲンカがあったことはたいした事件ではない。
「だましたね」
「いいじゃないか、秦海くんなら文句はないだろうが」
「でも、ちょっとぐらい話してくれてもー」
「おい、深町さんがにらんでるぞ」
「うっ、まずい。あとでカタつけるからね親父」
それから誓いのキスも「口はやだ」という天宮の言葉で、仕方なく秦海は頬に軽くだけにとどめた。少し風変わりだが、ここは身内だけなので、さほど問題はなかった。披露宴に出席する前に控え室に戻ると、十着以上のウエディングドレスとイヴニングドレスが並んでいる。
「あまみやー、全部着てくれんかね」
控え室に親父殿がやって来てそう言った。
「これ全部?」
「あまみやに似合いそうなドレスを選んでいたら、こんなになってしまってなあ」
「こんなに着替えたら、式に出てるのか着替えてんのかわかんないよ、おとうさん」
「では、写真だけでも頼めんか」
写真ぐらいなら問題もなかろうと天宮はうなずいた。それから、井上が「お願いがー」とやって来た。
「天宮さま、お願いがございます」
「何でしょう?」
「お食事に手をつけないで下さい。花嫁は食べてはいけないのです」
えーっと天宮が大声をあげた。それが楽しみだったのに、と拗ねている。
「いえ、あの、お色直しの時に天宮様の好きなものを用意しておきますから、ここで召し上がって下さい。何がよろしいですか」
それを聞いて天宮は、んーと考えて、「たこ焼き」と言った。
「たこ焼きはちょっと、他には」
「えりどんの作るおじや」
「深町様にはスピーチとお歌をお願いしてありましたね。それも無理でしょう。出来ればフランス料理か何かで」
そう言われて天宮は本格的に考え込んで、よくよく考えてみると、フランス料理などは、秦海のおごりでしか食べたことがないのでメニューを見たことがない。
「えー、この間食べたアレおいしかったなあ」
「なんでしょうか」
「お肉でね、あまーいソースがかかってるやつ。ソースの色は赤だったかなあ」
ほとんど気分はシャーロックホームズである。井上とて、秦海家の執事で長年いろいろなフランス料理を見知っているつもりだが、それでは分からない。そこへ秦海がやって来た。
「そろそろ行こうか、天宮」
「渉様、この間、天宮様と召し上がったフランス料理を覚えておられますか」
井上が、その秦海に尋ねた。天宮が「ほら、この間夜景見ながら食べたでしょう」と横から言う。
「あれはー、カモのオレンジソースだったと思う」
「えっ、お肉じゃないの? 牛肉のたたき」
「違う違う、あの店はカモ料理がメインディシュだ」
「そうか、でもカモって、お鍋にすると固くなるのよ」
どういう食生活だか、と井上は溜め息をついた。横で深町が天宮をたたいている。
「もう、私がおかしなもの食べさせてるみたいじゃないの」
「でも本当だよ」
「なんでもいいから、行くぞ!天宮」
「ん」
深町は、その二人を追い抜いて式場に入った。すでに席は満杯、500人からの有名著名人がひしめいている。
「もう飽きたなあ」
「俺も飽きてきたところだ。だが、天宮のお披露目だから我慢してくれ」
秦海が、天宮の肩をそっと抱いた。その手をピシッとはたいて「10年早い」と天宮はのたまった。
「つれないな天宮は、これぐらいはいいだろう」
「今度やったら、本気で殴るよ」
照れているぐらいにしか思っていない秦海は、クスクスと笑いながら披露宴会場に入った。
披露宴の方も大事件はなく終わった。途中のスピーチで天宮は驚いてちょっと引いてしまった。見事な忌み言葉オンパレードスピーチを流れるようにした者がいたのだ。
「ねえー秦海、あれ誰?」
「あれは河之内商事の若社長だ。もとは納豆を作ってる食品会社だったが、親子2代で商事会社にまで築き上げた。向こうが勝手にライバル視していてな。正直呼びたくなかったんだが、呼ばないと後で何を言われるか分かったもんではないのでな」
「へんな人だよね。「別れろ」とか「切れろ」とか言いまくってるけど」
「ほっておけ!いいか天宮、あいつだけは相手にするなよ」
「うん」
しかし、この河之内が後々騒ぎのタネになる。深町のスピーチは忌み言葉もなく、どこかのスピーチ原稿をそのまま棒読みしたようである。
さすがにお互い急なことだったので、そのままハネムーンに行くことは出来ない。式が終わると、秦海家に戻った。戻る直前に、秦海は秘書に呼び止められた。
「社長、明日は午前中に大事な要件がありますので、10時には出社して下さい」
「休みにはならないのか、川尻」
秘書の川尻は、眼鏡の奥でニヤリと笑った。せっかく奥方をもらわれたのですから、これからはますます仕事に励んで頂かなくては、とスケジュール帳に何やら書き込みながら言った。
「分かった、10時だな。それでは今日はこれで帰る」
「はい、おつかれさまでした」
軽く会釈して、川尻はホテル内に戻った。後片付けがあるらしい。披露宴は2時間程(大半がありがたいスピーチであった)で終わったのだが、それから十数着の衣装をとっかえひっかえの写真が待っていた。それが思っていた以上に手間取って、夕刻までたっぷりかかってしまったのである。
「もう二度とごめんだな、天宮」
帰りの車中で、秦海は隣りでぐったりしている天宮に話しかけた。
「同感ー、ねむいし、おなかはすくし、ロクなもんじゃないね」
「そう言えば、食事は?」
「食べてないよー、お直しのときに食べたきりだもの」
「帰ったら、何か食べるか?」
「うん、お茶漬けぐらいかな」
すばやく自動車電話で、秦海は家に連絡を入れた。今日は井上も同行していたので、他のものに用件を伝えた。
天宮の本妻さんはまだ帰国していない。これでおとなしく本妻さんが帰ってくればいいのに、と秦海はそれだけを切に願った。
作品名:天秦甘栗 用意周到3 作家名:篠義