閉じられた世界の片隅から(4・完結編)
雪道ではかなり歩いた気がしたあの町外れの場所は、思ったよりも近かった。元々滅多に人の近寄らない場所だけあって、空気が、違う。人の生活感がまったく感じられないその場所。他の場所ももう人がいなくなって一月は経つので人の気配はないけれど、そこには人が生活していた匂いがまだ残っている。この場所には、それさえもない。
全体的に日当たりの良くないこの街の中でも一際光の差さないこの場所。立ち入り禁止の看板のその先へ。
あの時は、できるだけ人気のない場所を探してここまで来たんだった。今はもう、町中のどこからも人の姿は消えてしまったけれど。
崖の岩壁に、フィズをもたれさせた。あとは、やることはひとつだけ。
召喚器具のスイッチを押した。回路にセットされた鉱石が輝き始める。紙に書かれた呪文は、自分でゼロから書けと言われても無理だけれど、意味はなんとなくわかる。呪文の構造と意味と仕組みは、声に出して読むうちに頭の中で把握されていく。この呪文を唱える意味は知っている。なにも怖いものなんてない。フィズをこのまま永遠に失って、僕がこのままたったひとりで壊れていくことだけが、怖かった。
長い呪文。意味がかろうじてわかるだけ。魔法書の丸写しのカンペを、できるだけ規則に従って読む。それでも、あたりの空気が変わったような気がしたのは、魔人の気配と、僕の期待と、緊張と、不安のせい。
魔法を習得し始めたばかりの小さな子供ぐらいには様になっているだろうか、呪文の詠唱が最後の一字に達した。何も起こらない。間違えてはいない。ただ、恐らくはあの人が現れるであろう場所を、僕はじっと見つめた。
回路にはめられた鉱石が一際強い光を放ち、次の瞬間粉々に砕け散った。あまりの眩しさに目が眩む。視界が戻るまで数秒。
目の前に立っていたのは、普通の人間とほぼ変わらない容貌を持った、妙齢の女性だった。
世界を創り上げた創世の魔人とは、この姿だけではとても思えないけれど、僕はこの人を知っている。尖った両耳、昔話で聞いたのと同じ、紫水晶のような双眸。
「お久しぶりです」
またも、例によっていきなりファルエラさんは笑い崩れた。そんなに僕のリアクションはこの人の笑いのツボにハマっているのだろうか。さすがに初対面と二回目と連続で挨拶するなり爆笑された相手は他にいない。
「まったく。……あたしを二回呼び出した相手もそうそういないけど会うなりお久しぶりはお前さんが初めてだよ。いやいや、毎回あたしを笑い殺すつもりか?」
「そんなつもりは、ないんですけど」
「いや、わかってるさ。さて。今日の本題はなんだい?」
表情が、変わる。にやりと笑って、僕を見た。それから、フィズをちらりと見やると、ファルエラさんは笑った。先程みたいな腹を抱えて笑い出すようなそれではない。
「あたしの予想は、外れたみたいだねェ」
「え?」
本題を切り出そうとした瞬間、ファルエラさんがそう口にして、僕は言おうとした言葉を止めた。予想、何が。
「嬢ちゃんは、世界を変えることより自分を変えることを選んだんだな」
フィズを見る、その紫の眼は、穏やかだった。
世界を変える。それは、あの時ファルエラさんが言っていたこと。
今の今まで思い出すこともしなかったその言葉。意味を考えることさえなかった。
多分それは、あまりにも現実離れしていたから。だけど、今になってわかった。ファルエラさんは、フィズのあの巨大な力を知っていて、言っていたのか。
「いい顔をしてるよ。別人みたいだ。一体なにがどうなって、嬢ちゃんがこうなったのかを話してくれるな?」
僕は頷いた。あのフィズの暴走によるファルエラさんとの邂逅から後のこと。
レミゥちゃんの来訪とシフト氏との対決、それに伴う街の放棄。シフト氏を僕が射殺したこと、シフト氏の部下たちが橋から落ちて亡くなったこと、それを生き返らせてから、フィズの体調が思わしくなかったこと、そしてとうとう、力尽きたこと。
元々長話をしたい気分でもなかったし、それ以上に照れくさい部分もあって細かい部分は多少省略したけれど、話を聞いていたファルエラさんが時折ニヤニヤしながら僕を見ていたので、もしかしたら見抜かれていたのかもしれない。
「なるほどねェ。で、お前さんの見立ては?」
「魔力の急速な消費に伴う老衰と見てます」
「さすが医者だ」
その言葉は、その診断が正解であったことを示していた。感心するような口調ではあったけれど、僕は胸がずきりと痛むのを感じた。
医者なのに、フィズの体調をわかってあげられなかった。僕の手ではどうにもならなくなるまで、無理を止められなかった。勿論、止めていたら、あのときフィズはあんな風に笑ってくれはしなかったとも思う。きっとあの一件で、フィズは自分の中の何かに折り合いをつけたんだ。それでも、もし気付くのが早ければ、もっと急いで此処まで帰ってこれたのに。フィズの心臓が止まってしまう前に。
「ま、そんなに自分を責めるんじゃないよ。結果が出てからとはいえ、魔法に弱い素人の人間がそこまで予測を立てられただけでも上等だ」
そう言って、ファルエラさんは切れ長の眼に少し笑みを残したまま、続けた。
「嬢ちゃんの持つ強い力や、他の人と違うということ。それはそれ自体がトラブルの元になりやすい。利用しようと考える奴もいるだろう。制御しきれずに大きな事件を引き起こすこともあるし、嬢ちゃんの場合そんな力を持つに至った生まれが生まれだしな。それはお前さんにももうわかっただろう? で、だ。問題に直面したとき、普通は逃げるか、自分を変えるかの二択を迫られる。だけど、嬢ちゃんの場合は、もうひとつ選択肢があった。それが、自分に問題ばかりを投げつけてくる世界それ自体を変えちまうこと。普通の奴にそんなことはできないがな、もしそれができるんだったら一番簡単だ。自分をそのままに、問題は解決するんだからな。やりようはいくらでもある。ま、国のひとつやふたつ、丸ごとぶっ潰すくらいのことはできるだろ」
国のひとつやふたつって、なんだか凄い規模の話が普通に出てきたような。
だけどもう、多分何を言われても僕は驚かない。感覚が、麻痺してきたみたいだ。
「それだけの力が、嬢ちゃんにはあったんだよ。自前の魔力だけで七人も死んだ人間を蘇らせるなんて聞いたことないねェ」
「そんなに、凄い力が必要なんですか」
「ああ」
ファルエラさんは頷いた。
「とはいえ、人間にはピンと来ないだろ。……ま、わかりやすく言うと、大体魔族の寿命三百年分の魔力を一気に使ったと思えばいい」
桁が違いすぎて逆にピンと来なかった。三百年ならば魔族の寿命すら軽く越える。
「それができるのが人間の持つ無限の回復力だよ。それが追いつかなかったから嬢ちゃんは力尽きた」
「いつもの身体に戻れなくなったのは、どうしてかわかりますか?」
「勿論。身体を作り変えるのは結構疲れることなんだよ。嬢ちゃんの場合、それができないぐらいに魔力を使い果たしてた。だから元に戻れなくなったんだろう」
作品名:閉じられた世界の片隅から(4・完結編) 作家名:なつきすい