閉じられた世界の片隅から(4・完結編)
それを確かめることはできない。シフト氏は、もう此処にはいないのだから。だからこれは、なんの根拠もないただの想像だ。
「……帰ろうか」
「ん、そうだね」
フィズは、まだ不思議そうに首を捻っていたけれど、それでも頷いて。またフィズに休んでてもらっている間に墓を埋め戻した。
さようなら。最後にそう、心の中で挨拶をして。先程の妄想を胸にしまって、僕らはここを後にした。
そのときはなんとか元気そうな様子を見せていたフィズだけれど、街道まで戻ったところで、がくりと膝を突いた。
「大丈夫?」
「……ごめん、少し休憩」
少し休憩、でなんとかなるような様子ではなかった。かといって、僕も少しずつ身体がだるくなってきていて、これから数キロの道のりをフィズを負ぶって進むのは無理だ。結局、首都側方面へいけずに立ち往生している荷馬車に頼んで、お金を払って宿まで乗せていってもらうことにした。
そして宿についたところで、僕もとうとう限界だった。安心して気が抜けたら、もう立っていられなかった。一度ベッドに倒れ込んだら、もう立ち上がれない。さっきまで押さえ込んでいた熱が、一気に上がってきたようだった。
「大丈夫?」
そう言うフィズも、勿論大丈夫なわけがなくぐったりと疲れきっていて、マントと帽子を取って直ぐにベッドに横になろうとしているようだったけれど。
「……ね、サザ」
少し何かを考えている顔をして、それから。
「一緒に、寝てもいい?」
そう言って、僕が入っている布団をめくり上げた。
「え」
「嫌?」
「嫌じゃ、ない、けど」
状況が飲み込めない。フィズは、何を考えているんだろう。そんなことを思っていると顔に出ていたのか、少し苦笑いをしながら、ひらひらと手を振った。
「大丈夫大丈夫。昨日みたいにいきなり襲ったりしないから」
「あ、うん」
別にそれを警戒していたわけではないけれど。僕は少しベッドの端に寄って、フィズが入るスペースを確保した。ゆっくりとした動作でそこに身体を横たえると、布団を被る。触れたフィズの腕は、酷く、冷たかった。
「ごめん、寒い?」
「いや、大丈夫」
「ん、そう」
短く答える。少しだけ間があって、フィズが僕に、身を寄せてきた。
「昨日は、……今思うと私最低だったね」
「それはもういいだろ。今はそうじゃないんだし」
「あんた童貞だってのに」
「気にするポイントそこなんだ?」
例によって予想の斜め上を行く言葉が降ってきて、僕は思わず気の抜けた声を出した。いや、あの。
「違った? あんた女の子と付き合ったことあったっけ?」
「いや、ないけどさ」
一体何を気にしているんだ。
「あんなくだらないことで襲っちゃって、もしあんたが据え膳はおいしく頂いちゃうタイプだったらあんたの童貞あんな形で散らせることに」
「や、あー、まー、うん……」
その通りなんだけど、なんだけど。
さすがに童貞童貞連呼されると、なんかすごく微妙な気分になるのだけれど。どうしてか聞かれても困るが。別に早く捨てたいわけでもないし、それ自体はわりとどうでもいいはずなのだけれど。なんというかこう、実も蓋もない。
「ごめん」
「あ、いや、結局未遂だったんだしいいんじゃないかな……」
気にするポイントは本当にそこで適切なんだろうか。だけど違うともどうも言い切れないような気もする。どうしたものだろう。
なんだかそんなような微妙な心持になっていると、予想していなかった冷たさが、僕を包んだ。
フィズに、抱きしめられていた。
「サザが、あの時私を止めてくれてて、本当に良かった」
フィズの声が、頭の上から聞こえた。僕の顔はフィズの首の辺りに押し付けられていた。冷たいはずなのに、身体が熱い。心臓がばくばくと跳ねた。
耳の奥で、血管がうるさいぐらいに鳴っている。それから、フィズの心臓の音も近くから聞こえる。なんで、どうして。この距離でフィズに触れることなんて、初めてでもなんでもないのに。フィズの腕は力が十分に入らないらしく、払ってしまえば簡単に落ちるだろう。だから、昨日の夜のほうが、ずっと距離は近いはずなのに。
似たような感覚を、味わったことがあったような気がして、記憶を遡ってみる。でもそれすらままならないほどに、心臓がやかましく鳴っている。そして、それがあの記憶をなくしたままフィズに会ったときのあの感覚だったことを思い出すのと、フィズの言葉は、ほとんど同時だった。
「ねえサザ。サザとずっと一緒にいたいよ。一生、離れたくない。……私、あんたのことが、好きなんだと思う」
どくん、と大きくひとつ、心臓が鳴った。その、切実な声で囁かれた言葉に、冷たいフィズの体温に。
「好きだよ、サザ。大好き。人間としても、弟としても、友達としても、……その、恋とか愛とかって意味でも、好きだよ」
それから、耳元で返事、何ヶ月も待たせてごめん、と囁いた。
返事が、できなかった。驚きすぎて。状況の理解に頭が追いついていない。フィズが、僕を好き。本当に? これは現実だろうかなんて、そんなことを考えてしまう。夢かどうかを確かめるのに頬っぺたを引っ張るなんていうのを聞くけれど、残念ながら僕は夢の中でも痛覚やらなんやらが結構あるほうなので、判断材料にならなさそうだ。
すっと、フィズが上半身を引いた。瞳は、未だ両方とも赤いまま。その柘榴石の双眸で、僕を覗き込んだ。
「……あんたは?」
その瞳でじっと見つめられて、急速に、さっきの言葉が僕の中で現実感を増してきた。
少し頬を赤く染めた、フィズが目の前で、僕を見ている。
自慢の姉。命の恩人。大事な家族。……ずっと、ずっと好きだった人。誰よりも大切な人。たくさんの大切な思い出を共有してきた人。それをすべて無くしても、それでも一目で惹かれてやまなかった人。
その存在全てが、愛しくてたまらない。
本当に僕でいいの? とは、聞かなかった。それを問うことは、フィズの判断を疑っていることになるから。
「好きだよ」
僕はぎゅっと、フィズを抱きしめた。熱のある身体に、フィズの冷たい体温が心地良かった。
「ん、良かった」
フィズはそう答えて、猫が甘えるように僕に身をすり寄せた。触れた箇所から、じんわりと、喜びが沸いてくるようなそんな気がした。
ずっと、求めてやまなかった人が、此処にいる。何よりも大切な人が。フィズがいなければ生きていたいとも思えないほどの、僕のすべて。
フィズが腕を伸ばして、僕の髪を撫でた。華奢な手の感触が、髪の毛越しに感じられた。それから、少し躊躇うように表情が揺らいだ後、耳元で小さく囁いた。草原を渡る風のような、透明な、その声で。
「目を、閉じてて」
言われるままに目を閉じる。何が起きるか予想していなかった、と言ったら嘘になる。予想というよりは、期待、か。
唇に、柔らかなものが触れた。甘い味がする。多分、それはさっき薬を流し込むのに使った、味の濃くてやたらと甘くて単体で飲んでも美味しくないジュースの味。軽く触れたそれがそっと離れる瞬間、フィズの息遣いが耳に入った。目を開く。少し嬉しそうに、照れくさそうに笑う、フィズの笑顔がそこにある。
「……どうだった?」
作品名:閉じられた世界の片隅から(4・完結編) 作家名:なつきすい