閉じられた世界の片隅から(4・完結編)
柄杓に貯めたぬるま湯で、上着をざっと流した。外で泥だとかは大体払ってきたつもりだったけれど、泥水と一緒に、赤黒い血が混ざって溶け出した。風呂場の中にも、鉄臭さが僅かに立ち込めて、換気をしなくちゃな、とぼんやりと考える。どうせもう誰も追ってこないだろうし、さすがにフィズも僕も体力的にかなり厳しい。数日此処で体を休めてもいいだろう。何日も暖かな晴れ間の間に部屋の窓と風呂場の戸を開きっぱなしにしておけば換気は十分だろう。風呂場に残った匂いはきっとすぐに消える。だけれど、鼻に刻み込まれたそれは、一生僕の中から消えることはないんだろうな、と漠然と考えた。それは、僕がこの手でシフト氏の命を奪ったという証だから。
どれだけ流しても水の色が変わらなくなったところで、そのほかの衣類と一緒にして洗った。洗い終わった衣類を物干しに干し終わる頃には、安い宿にしては広めの浴槽にお湯が張り切っていた。いつもより少し熱めに入れた湯に体を浸からせると、思わず、長い息が漏れた。じわじわと、体の奥にまで熱が伝わっていく。うっすらとした鉄の臭いに混じって、木製の湯船の匂いがふわりと広がった。
全身の筋肉の緊張が和らいでいく。痛い箇所はなかった。先ほど痛めた足はもうなんともないけれど、湯気で曇った鏡に映る僕の頬にははっきりと銃弾の痕が残っていて、周囲が引き攣れていた。それから、鏡で見なくてもわかる、胸の傷跡。これも、フィズに治してもらったけれど、あれから数ヶ月経ってもなお、薄れてはいかない。指でなぞっても、その部分だけ肉が盛り上がって固くなっているのがわかった。
傷が残っても残らなくても僕自身はどうでもよかった。顔の傷は目立つし、それでなにか支障があるのなら少し困るけれど、体の傷は誰かに見られることもほとんどない。ただ、着替えの時とかにそれを目にしたフィズが一瞬苦しそうな顔をするのだけが、辛かった。だから、寝巻きにしてもできるだけ首の辺りが開いていないような服を着るようにしているし、できるだけフィズの前での着替えは避けた。今は、ひとりきり。フィズが僕の傷を見て悲しむことはない。なんとなく、僕は鏡に映った僕を見つめていた。
ぼんやりと湯船に体を預けると、いろいろな思考が頭の中を駆け巡っては絡まったり、消え去ったりしていった。フィズのこと、僕のこと、家族のこと、イスクさんのこと、街の人たちのこと、シフト氏のこと、インフェさんのこと、戦争のこと。
インフェさんは、どんな想いで、フィズを抱えて逃げ出したのだろう。自分の命が削られるのがわかっていて。自分が愛する人たちと、一緒にいられなくなることがわかっていて。
どんな想いで、仲間の代わりに自分が犠牲になることを受け入れたのだろう。それが、どんな結果を招くと考えていたんだろう。自分だけじゃなくて自分を愛してくれている人たちが、どれだけ苦しみ、悲しむかを、わかっていたんだろうか。
シフト氏は、インフェさんの決断を知ったとき、何を思ったのだろう。自分を裏切ったと思ったのだろうか。それとも、自分を犠牲にして仲間を救おうとしたインフェさんの決断を理解したのだろうか。
どうして、ふたりとも、自分が大切にしていたはずのものを、諦めてしまったんだろう。もしも、インフェさんがなんとしてでも自分が生きて帰ることを望んでいたなら。もしも、シフト氏が、親戚や家族たちの反対を押しのけてインフェさんとの交際を貫き通していたなら。
考えても、わかるはずもなかった。その答えを知る人たちは、もうこの世にはいないんだ。ひとりは僕が生まれる前に亡くなっているのだし、そしてもうひとりも、きっとその時に壊れてしまっていたのだろう。だから、この問いの答えは、十九年も前に失われてしまっているのだ。
シフト氏の選択は、僕が選んだものとは違った。多分、ただそれだけのこと。僕が幸運だったのは、もしフィズをなくしたら、僕は僕でいられないだろうということに、本当に手放してしまう前に気づけたこと。それを知っていたから、何に代えてもフィズの手を絶対に離さないと誓うことができた。フィズのために死ぬぐらいなら、どんなに苦しくてもどれほど無様でもいいから、その隣で生きたいと心から思った。だから、後悔はしない。だけど、忘れない。僕が見聞きしたもの、僕がしたことのすべてを。それを忘れてしまったら、ただ欲のためだけに生きる存在に成り下がってしまうから。
だけど、僕に力が足りなかったことは、確かだ。もし僕にもっと知恵と機転があれば、或いはもっと良い方法があったのかもしれない。どうしたらシフト氏を救えるのかも、思いつけていたかもしれない。この選択を後悔はしないけれど、今のままでいいとも思っていない。
もっと、もっと成長したい。もっと賢くなりたい。もっと強くなりたい。そうすればきっと絶対に譲れない決断を迫られたときも、失うものを少なくできる。選ぶものは変わらなくても、もっと多くのものを守ることができるように、僕はなりたい。
自分の掌を見つめた。それをぐっと握ると、決意が形になったような気がした。「よし」と小さく口にして、僕は立ち上がった。ざばりとお湯が胸の傷に掛かって、少しくすぐったいような妙な感覚がする。部屋の温度とお湯の温度との差に少しだけ寒気がしたような気がして、すぐに湯船から出てタオルを被った。
部屋の外から足音が聞こえる。フィズが帰って来たんだろう。なるべく急いで服を着て、風呂場の戸を開けたのと、部屋のドアを開けたフィズの真っ青な顔が目に飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。おかえり、の一言が、出てこなかった。
「サザ…………」
買い物に行ったはずなのに、その手には何も握られてはいなかった。重さなどなにもないのにその手はがたがたと震えていた。
「私………また人、死なせた……」
その言葉の意味が一瞬理解できなくて、思わず「え」と間の抜けた声が口から漏れた。
どういうこと。さっき、シフト氏を死なせたのは、フィズじゃなくて僕だ。
それを問う言葉は出なかった。一歩、フィズの方へ歩む。また雨が降ってきたのか、フィズの大きな帽子も着替えたばかりの服も、雨を含んでぐしょりと濡れているのがわかった。
「どうしたらいいんだろ、ねえ、あんただったらどうする。私また」
「落ち着いて」
できる限り平静を保って、僕は言った。状況がつかめない。とにかく、フィズをベッドに座らせて、はっきりとした言葉が出るのを待とうと思った。
フィズが意図的に人を死なせるわけがないし、そんな理由もない。暴漢に襲われたとしても大怪我をさせない程度に返り討ちにすることなどフィズにとっては造作もないことだし、どうしても相手を死なせなければ自分が守れないような状況であっても、自分が犠牲になることを選びかねない。いつかのような酒臭さはない。正気のはず、なのに。
「あいつの部下たち、橋ごと落ちたって。街で凄い騒ぎになってるよ」
「橋が?」
引き返す途中のここから近い橋は、つい最近架けられたばかりの鉄製だったはずだ。それを言うと、フィズは小さく首を振った。
作品名:閉じられた世界の片隅から(4・完結編) 作家名:なつきすい