閉じられた世界の片隅から(3)
「ここで連中に真正面から歯向かったところで、良いことはなにもない。せいぜい、少しか気が晴れるだけだよ。なぁ、スゥファ。今わがままを言って、みんながあの人に酷いことをされるのと、今だけがまんして、一生幸せに暮らすのと、どっちがいい?」
スゥファの答えを待たずに、じーちゃんは続ける。
「俺は、お前たちを幸せにしたい」
それが、最後の願いなのだと、じーちゃんは僕に言った。
その言葉は、スーたちには言わなかったけれど。だけど僕は知っている。じーちゃんが諦めた願いと、諦めていない願いを。
「お前たちがちゃんと大人になって、どんな形でもいいから、幸せに生きてくれるのが、俺の願いなんだよ。そのために、俺はなんでもする。絶対に、お前たちを守るよ。……だからスゥファ、今は言うことを聞いてくれ」
スーは暫く、僕とじーちゃんとばーちゃんを順繰りに見詰めて、そして、やっと、少しだけ笑ってくれた。
「わかった」
そして僕を見て、にやり、と笑った。これはいつもの、僕に毒を吐くときの目。久しぶりに見るその表情に、妙にほっとした。
「サザなんかにお説教されるなんて、悔しいしね」
だけど、返ってきた言葉に毒気はなくて、少し拍子抜けした。それでも、この見慣れた表情を見るだけで、いつものスーが戻ってきているのがわかって、安心する。強い子だと、思った。僕が八歳ぐらいだったなら、こんなに早く、覚悟を決められただろうか。
今なら、できる。僕が手放してはいけないものがなんなのかが、わかったから。
僕たちや、街の人たちを逃がすチャンスを逃さないために、ばーちゃんは此処に残る。
じーちゃんが、スーとレミゥちゃんを安全なところまで連れて逃げる。
フィズは三人が逃げるまでの時間を稼ぐ。
ばーちゃんのような影響力があるわけでも、フィズやじーちゃんのように魔法が使えるわけでもない僕に、できることはなんだろう。
まずは、みんなの足を引っ張らないこと。端的に言えば、怪我をしないこと、死なないこと。それから、フィズの傍にいること。前者は最低限のこととして、後者は、一体僕がどれだけフィズの支えになれるかは正直わからない。
けれども。もし僕が少しでもフィズの助けになれるというのなら、なんだってする。なんでもできる。
「……ありがとう、スゥファ」
ばーちゃんはそう言って、そして、次に僕とフィズを見た。
僕は背筋を伸ばす。これからが、多分、僕たちの役目について。フィズは多分、まだ聞いていないはずだ。僕だって、細かいことは知らない。
「フィズラク、サザ。お前たちもこれでいいね?」
僕は頷く。フィズは、目を伏せたまま、頷いた。
「しょうがないよ。ごめんなさい、ばーちゃん、じーちゃん」
こんなことに、なってしまって。そう呟く声は、か細くて、隣に座る僕以外には聞こえただろうか。
フィズが気に病んでいないわけがない。もう逃げないとは言ったけれど。スーの泣き顔に、自分を責めていないわけがない。
「フィズのせいじゃないよ」と、言いたかった。だけど、それを言ったところで変わるだろうか。変に優しくしないほうがいいと言ったのは、いつだったかの露店の店主。
言葉というのは、人間が思っているほど、本当の思いを届ける機能はない。いや、人間が本当の思いを誰か他人に伝えることなんて、できない。だから言葉でいくら慰めても、届かないかもしれない。
ずきり、と痛かったのは、心か、この間の傷跡か。
せめて、テーブルの下でかすかに震える手を、握りたいと思って、だけど、一瞬躊躇った。スーとレミゥちゃんにこの位置からは見える。レミゥちゃんはともかく、スーが何を言うだろうかと、一瞬考える。それでも、頭を無視して手は動いた。
小さく震える掌は、冷たくて。フィズがこちらを見たけれど、僕は目を合わさなかった。どんな顔をしたらいいか、わからなかったから。
「……私たちは何をすればいいの?」
フィズが尋ねる。僕の手は、ほどかないまま。その手は冷たく、まだ震えも止まらない。
だけど、「私たち」と言ってくれたことが、少しだけ、嬉しかった。ひとりじゃないと、思っていてくれているような気がして。
少しだけ、握る手に力を込めた。
「フィズラクは、やることが多い。この間と同じだ。ちょっとした、芝居を打ってもらう。役柄は、あたしたちからレミゥを奪う、はぐれ者」
「……?」
「覚えることが多いから、本に纏めた。明々後日までに全部覚えてくれ。多少のアドリブは構わないから」
渡されるのは、ひとつの紙束。僕の手を解いてそれを受け取り、ぱらぱらと捲っていく。1ページごとに、フィズの表情が、確かに、はっきりと歪んでいく。
「ばーちゃん、私、これ言うの……?」
「ああ」
「どうしても?」
「ああ」
「私じゃなきゃ……成立しないよね、この役………」
「……ああ」
フィズの声が、はっきりと、はっきりと、沈んでいく。
イヤだ、と呟く声は、小さくて。
噛み締める奥歯の音のほうが、はっきりと聞こえるぐらいに。
「これ、こんなの……」
イヤだよ。聞こえない。だけど、口はそう動く。
「演技でも、嘘でも……こんなの嫌だ……」
「フィズ?」
一体、どんな内容だというのか、僕はフィズの手元の紙束を覗き込んだ。
端から、目を通していく。端っこにたどり着いて、手を伸ばしてそのページを捲る。
目で追う、文字の羅列。一文字、一文字ごとに、心の中に重たい石がずしり、ずしりと落とされていく。
それは、違和感のない台本。フィズの、置かれた状況を考えれば。だけど、ありえない文言。フィズのことを少しでも知っていれば。
連なる、連なる、悪口、罵詈雑言、不平、不満、文句。整然と並べられて。
わかりやすい筋書き。自分の出生を恨んだフィズ。帰ってきてはみたものの取引の材料にされることに怒って飛び出す。同じ境遇にあるレミゥちゃんを案じて戻ってきて彼女を奪還、という状況に相応しい言葉が並ぶ。いくつもいくつも。
「これ、言わなきゃ疑われる? 嘘でもばーちゃんのこと、嫌いだなんて言いたくないよ……」
はっきりと、聞こえる言葉が、やっとフィズの口から聞こえた。
フィズの大事な役どころ。舞台の見せ場。それは、フィズがばーちゃんにあれらの言葉をぶちまけるシーン。それによって、フィズと、それ以外の家族との決裂を決定的なように見せかけて、ばーちゃんに対して軍部に疑念を持たせない。ばーちゃんがフィズに脱出とレミゥちゃん奪還を指示したとなれば、ばーちゃんだけじゃなく、先に逃げた町の人たちにも迷惑がかかるから。あのときみたいな即席の三文芝居では困るのだ。きっと。
だけど、だけど。言いたくないのは、わかる。
ましてや、もしかしたらこの場面が、フィズとばーちゃんの今生の別れになる可能性があるというのなら、尚更だ。
投げかける最後の言葉が、こんな呪いの言葉だなんて。そんなの、言いたくないに決まっている。
だけど、そうでもなければこの状況、フィズがレミゥちゃんを連れて逃げたなどと言って、ばーちゃんの差し金でないと信じてもらうことなんてできないかもしれない。この台詞を言ったとして、それでも信じてもらえるかどうか。
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい