閉じられた世界の片隅から(3)
2. 短い夜の合間に
翌朝。僕たちは母屋のリビングで、テーブルを囲んでいた。
イスクさんは朝早く、周りの様子を伺いつつ、家に帰っていった。
「人目の気に仕方が彼氏の家から朝帰りする子みたい」といって、フィズは笑った。泣かないように。僕も笑った。寂しさを誤魔化すように。
一晩中イスクさんと話していたらしいフィズは、眠そうな目をしていた。イスクさんも同じ。
半分泣きそうな目をして、だけど、笑ってた。
「それじゃあねサザ君。元気で。……本当に、元気でね」
寂しそうにそう言った後、イスクさんが手招きをする。誘われるまま一歩近づくと、耳元に唇を寄せて、小さくささやいた。
「フィズラクを、頼むわね。あの子も、わたしの宝物だから」
声が一瞬泣いていたように思えたのは、僕の気のせいだろうか。
気のせいだったかもしれないと思ったのは、その次に飛び出してきた言葉が、あまりにもあんまりだったから。
「その代わり、あの子のことサザ君の好きにしていいわ。今夜あたり強引に迫ってみたらどうかしら?」
「は!?」
思わず大きな声が出てしまう。好きにしていいって、強引に迫れって、ちょっと待て。
瞬間、イスクさんが盛大に噴出して、お腹を抱えて笑い出した。
「あ、ははっ、サザ君可愛い〜っ!!」
「はぁ?」と、間の抜けた声を上げたのは、フィズ。あまり見ないイスクさんが笑い転げる姿にきょとんとしているのは、スー。
いやまあ、わかってるけど、からかわれているのは。だけどこのしんみりした空気の中で、突然そんな爆弾を投げ込まれたら回避のしようがない。一体僕はどれだけ間抜けな顔を晒してしまったのだろう。
「あんた、何言われたの?」
「いや、うーん……なんというか………」
なんと言ったものだろう。正直に答えるのもなんだか憚られる冗談だし。
やっぱりこの人はフィズの友達だなぁ、と、なんだか妙に納得してしまった。イスクさんはまだ笑い続けていて、笑いすぎて息も絶え絶えになったところで、やっと止まった。こんなに息苦しそうにしていて、お腹の赤ちゃんは大丈夫なんだろうか。
「あー、よかった。やっぱり、こうじゃなきゃね」
「なにが?」
言うと、イスクさんは、にっこりと笑った。涙が滲んでいたけれど、本当に、楽しそうに笑ってくれた。
「わたしたちは、楽しくなくちゃ」
それが、本当に楽しそうで。
僕は少し、泣きそうになった。
「それじゃあ、元気でね。フィズラク、サザ君を頼むわね。わたしだって、サザ君のお姉ちゃんのつもりなんだから、サザ君を悲しませたら承知しないわ」
「大丈夫だよ」
フィズはそう言って。
次の言葉にまた僕は、見事に潰れた。
「サザは私のだもん」
「は!?」
「あ、」
その後呟いた、「弟忘れた」という言葉は、最早イスクさんの耳には入っていなかったらしい。
にやぁ、っと少しばかり悪い笑顔を浮かべて、イスクさんは僕を見た。いや、フィズにそんなつもりはないと思う。思うけど。
「良かったわね、サザ君」
「………いや、フィズにそんなつもりは、多分」
「ないわよ! 言い忘れ言い忘れ!! 私はサザのお姉ちゃんだもん、イスクに言われなくたって悲しませたりなんかもうしない!!」
顔を真っ赤にしたフィズが割り込んで来て。
顔を真っ赤にして早口でわーわー叫んでいるフィズと、ニヤニヤしているイスクさんと。
やっぱりニヤニヤした顔で僕を見ているじーちゃんと、「一体何事だ」とじーちゃんに聞くばーちゃん。
きょとんとしているスーと、「楽しそうだね」といって笑うレミゥちゃん。
そうだ。僕たちは、楽しくなくちゃ。
「まあ、心配いらないですよ。僕もフィズも。だから、安心して、元気な赤ちゃんを産んで、研究頑張ってください」
「そうよ。私たちだって、あんたに心配されるほどヤワじゃない」
まだ少し赤みの残る顔で、フィズもそう言って、笑った。
イスクさんはニヤニヤした笑顔から、ふわりと、穏やかな笑顔に変わって。
「……そうね」
そう言って、僕らに背を向けた。もう、振り返らなかった。
僕らも黙って、追いかけることもせずにその後姿を見送った。遠くにその姿が霞んで見えなくなるまで。
もしかしたら、もう二度と逢えない。
だけど、もう大丈夫。イスクさんも、僕らも、たとえその道がもう交わることがなくても、それぞれの行く先で、笑って、生きていけると信じるから。
イスクさんの真っ直ぐな背中が歩む道が、あの人の心根のように、真っ直ぐなものでありますように。僕はそれを、願う。
「じゃあ、朝食の準備をしようかね」
ばーちゃんがそう言って、台所へ向かう。僕らもそれに続いた。
多くても、今日を含めてあと三回の、この家で摂る朝食。あと、残り二日。
その時間を噛み締めるように。
相変わらずフィズは手先が不器用で、ナイフの使い方がなんとも危なっかしくて。それを黙ってすっと横取りしたレミゥちゃんのほうが余程安心して見ていられる手つきで野菜の皮を剥いていく。スーはじーちゃんとばーちゃんに良い野菜の見分け方を習っていて、僕はスープのだしを取る。
普段ないぐらい、賑やかな台所。六人が入るには手狭だけれど、少しでも長く、こんな時間を過ごしていたかった。
人手はあるはずなのに、いつもよりも準備に時間がかかるのは、やはり手際の問題なのだろうか。それでも、ただ待っているよりも、ずっとずっと楽しかった。出来上がった朝食は、いつもより味付けが濃い目だったのに、何故かおいしかった。
朝食を片付けて、お茶を淹れる。茶菓子もあるだけ出した。お菓子だとかお茶だとかは、多分持っていかないから、出し惜しみしてもしょうがないのだと思うと、寂しくなった。その上これからする話は楽しい話ではない。あと数日でやってくる、別れのための用意。
いや、違う。これからするのは、少しでも確実に、みんなで生き残るための作戦会議だ。そう考えれば、同じ内容を話すのでも、意味合いは変わる。
少しでも、少しでも楽しく。これから、何が待っているかわからないからこそ。
楽しく笑って未来を生きるために、できる限りの策を講じて、此処を離れる。
それはすべて未来のため。そう信じれば、多分、僕らは希望を持ったままでいられるから。
「じゃあ、ちゃんと聞くんだよ」
ばーちゃんが言った。僕らは無言で頷く。スーとレミゥちゃんも、状況がわかっているのだろう、神妙に座席についていた。
「みんなで生き残るための作戦だ。スゥファとレミゥは、タクラハと一緒に隣の国まで逃げるんだ。逃げるまでの時間は、フィズラクとサザのふたりに稼いでもらう。子どもの足でもタクラハがついていれば、夏場だし一月もあれば国境を越えられるはずだよ。そこまで逃げれば、まさか連中も追ってこないさ。外国では軍の権力なんか通用しないからね。十分に時間を稼いだら、フィズラクたちも国境を越えて逃げるんだよ。勿論、途中でお前たちが捕まったんじゃしょうがないから、どんな手を使ってでも、逃げ切るんだ。いいね」
僕は黙って頷いた。じーちゃんから大まかな内容は既に聞いていたから。
だから、わかっていた。ばーちゃんが、どうするつもりなのかも。
作品名:閉じられた世界の片隅から(3) 作家名:なつきすい