閉じられた世界の片隅から(2)
一瞬、フィズの顔が困惑したものに変わった。直ぐに理由を察知する。いつもじーちゃんが泊まっていた離れの客間は、今やフィズの物置と化している。その表情の変化を、ばーちゃんも当然見逃すわけもない。
「フィズラク」
「あ、う、えーっと」
「フィーズーラークっ?」
「は、はいっ」
びしりと背筋を正して直立不動の姿勢になり、ばーちゃんに向き直る。その様子を見て、じーちゃんはこらえ切れない様子で笑い始めた。
「あはは、相変わらずだねえほんとにっ…くくくっ…フィズラクもカラクラも…はははっ」
「じーちゃん、笑い過ぎ……」
「いやー、これを見れただけでも、帰ってきて良かった、ほんと……くくくっ」
そんなに面白いものなのだろうか。しばしばとばっちりで怒られる立場としては、そうは思えないのだけれど。
「まぁ俺だって老い先短い身だからねえ、サザもあと六十年も経てばわかるさ。それに四十年以上も落ち着ける家も、迎えてくれる家族もない生活をしてると、やっぱりこういう、地に足の着いた生活のありがたみみたいなものを思い知るんだよ」
僕の内心をまたも読み取ったのか、笑うのを止めて、そんなことを口にしたじーちゃんの表情が、穏やかで優しいものだったのに何処か、僕でもはっきりわかるぐらい寂しげで、少し驚いた。じーちゃんがどうして放浪の旅を続けていたのかを、僕たちは知らない。その間にどういう経験をしたのかも。
「だからああいう、家族のコミュニケーションみたいなものに憧れるんだろうねえ。……大事にしなよ、サザ」
この歳になってから気付いたって、もう遅いんだからさ。そう、じーちゃんは言った。
その言葉の真意は僕にはわからない。積み重ねてきた日々も、生きてきた年数も全然違うのだから。それでも。
「僕は、じーちゃんも僕の家族だと思ってるよ」
なんとなく寂しかった。ああいう言い方をするということは、この家はじーちゃんにとって落ち着ける家ではなく、僕らは迎える家族ではないということだから。確かにばーちゃんの場合、じーちゃんの幼馴染で親友であると言っており、家族とは違うかもしれない。それでも、僕らきょうだいは、じーちゃんをずっと祖父だと思っているのだ。
じーちゃんは僕の頭をぽんぽんと叩く。なんだかこんなような僕に対する扱いも、少しだけフィズと似ているかもしれないと思った。
「……悪かった。サザもフィズラクもスゥファも、みんな俺の可愛い孫だよ。長いこと独りで旅なんかしてると、ついそんな風に言いたくなるんだよ。ごめん。だから、そんな顔するなよ、もう十六になったんだろう?」
優しい、それは祖父の顔。その扱いに、見た目ではわからない生きてきた時間の長さの違いを実感する。
「そんな顔って」
「留守番言いつけられた、小さい子どもみたいな顔してるぞ」
そしてじーちゃんは僕の髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でた。子どもみたいな扱いで面白くはないけれど、実際七十代半ばのじーちゃんから見れば、僕も、多分フィズですら、「子どもたち」という枠組みに入るのだろう。一応、僕とフィズはもう成人しているのだけれど。
「ま、いいけどねえ。人間大人になってからの時間のほうが子どもでいられる時間より長いんだ。子どもで居られる時間は、大切に過ごしたほうがいいよ」
そして。今までの少しだけ寂しそうな顔をがらりと切り替えて。
「じゃあ、風呂借りてくるね。あと今日はサザの部屋に泊めてもらっていいか?」
いつもの部屋はとてもとても寝られなさそうだし、と未だ養母のお説教を喰らい続けているフィズを見て続ける。
「僕の部屋も大差ないと思うけど、なんとかじーちゃんの寝るスペースぐらいは確保してくるよ」
どの荷物をどの場所、どの部屋に収納すれば、一人分の寝床を確保できるだろうか、咄嗟に頭の中でスライドパズルが始まる。その様子で、僕らの部屋の状態を察したのだろう、「早めに家を探したほうがよさそうだねえ」と、じーちゃんは半ば呆れたように、それでも少し楽しそうに呟いた。
僕の荷物の大半は本と、いろんなところから貰い受けた壊れた機械で占められている。はずなのだが、僕の部屋にある荷物はそれらの倍ぐらいはある。勿論、フィズの部屋で収納しきれなくなったものたちだ。押し寄せる荷物たちからなんとか死守した作業スペースを使えば、布団の一枚ぐらいは敷くことができた。客人を床に寝せるのも申し訳ないし、僕のほうが背丈が低いので、場所をとらないこともあって、僕が床に寝ることにする。多少寝心地は良くないかもしれないが、明日あたり、フィズが客間の大片付けをするはずだ。さもなければ、ばーちゃんの監査が入ることになる。
明日は診療所が休みで、僕はイスクさんに魔法工学の授業をしてもらう約束をしている。一通り参考書に目を通して、今夜は早めに寝てしまおう。そう、思って本を広げる。
「わかるか?」
じーちゃんが上から覗き込んで声をかけてくれる。
「まあ、多少は」
もっとも、この本はイスクさんが子供の頃に使っていたものだ。これが理解できないのであれば、この分野は完全に諦めたほうが良いに違いない。
とはいえ、思っていた以上に、内容が飲み込めた。小さい頃は教本を開くのも嫌なぐらいだったほど、ちんぷんかんぷんだったはずなのに。そういえば昨年ジェンシオノ氏の講義に潜り込んだときも、初心者向けの部分のみならばついていくことができた。小さい頃に苦手だったせいか、ほとんど恐怖心に近いような苦手意識を僕は持っていたのだけれど、
「食わず嫌いだったのかもしれない」
やってみれば、まさかじーちゃんやフィズ、イスクさんといった錚々たる面々を前にして得意だとは言えないけれど、あんなにむきになって避けるほど難解だとも思わなかった。成長して少しは利口になったはずの頭できちんと学習すれば、自分が思っていたほどには苦手じゃなかったみたいだった。
「そうか。それは良かったよ。いやー、やっぱり八年もあると人間成長するよねえ」
「頼むから忘れてよ、その頃のことは」
集団の中で年下のほうである、ということは、即ち自分では覚えていないほどの小さな頃の話を忘れていてくれない人がたくさんいる、ということと同義である。
じーちゃんはにやにやと楽しげに笑い、いーや、忘れないよ、と返した。
「昔のことを覚えているから今の成長がよくわかる。ここニ年で随分変わったねえ、サザ。三人で一番変わったのは、サザだと思うよ」
そして、上から覗き込んだ。なんだか嫌な予感がする。何もかもを見抜かれているような、その目。
「………フィズラクだよねえ?」
「な、にが……」
やばい。間違いない。動揺が顔に出ている。気付いていない振りをしようとしても。
何が、なんて聞かなくてもわかる。先程の会話が頭を一気によぎる。男が苦手なことに取り組む時は、女性絡み。
「人が一番変わるのは、何か大切なものができたときなんだよ」
冷や汗が伝う。こういうとき、表情を取り繕って適当な嘘を即座に吐けるほど、僕は器用ではない。相手がじーちゃんならば尚更だ。
作品名:閉じられた世界の片隅から(2) 作家名:なつきすい