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遺書

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 私は、墓標の前に立ち尽くす…
 私として生まれたことに絶望し、私を私としてお生みになった神を睨みつけて。



 私は、誰なのでしょう。
 足下に散乱した足跡の付いた鞄、破かれたノート、その断片に書かれた落書き。それらを目の前にしても、私は私という人間の目を通してそれらを見ているような気がしなかったのです。まるで遠いところから、それを見下ろす私もろともに俯瞰しているような気がしました。
 私でいることを拒否した今、私には悲しいという感情も、怒りの感情も、どんな感情も沸き上がってはきませんでした。ただ、目の前の惨状が、まるで美術館に展示された尊い静物画であるような、そんな気がしたのです。
 どうして人は、与えられた肉体を伴ってでしか生きることができないのでしょう。この肉体を拒否してもなお、私はこの肉体を使ってでしか、動くことも、話すこともできない。もしこの世に神というものが本当に存在するというなら、私は貴女に問うてみたい。どうして、私を私としてお生みになられたのですか、と。どうして、私にはその選択権を与えてはくださらなかったのですか、と。
 私は、破かれたノートや踏みつぶされた文具を一つずつに視線を移し、そして教室を見渡しました。もう、この場所に戻ることはないでしょう。私は、十分に頑張ったではないですか。十分に、造られた意志に背くことなく、私はこの場所に赴き、闘い続けたと、今、思うのです。
 広い窓から、ふっと外を覗いてみる。狭い空の色は灰色にくすみ、その空の下に無数の箱の羅列。
 ねぇ、貴方。人生とは、箱の移動であると、私は思うのです。病院という箱の中で生まれ、幼稚園、小学校という人間を収容する箱を渡り歩き、そうして歩いた先にあるのは、会社という小さな箱だけ。そんなちっぽけな箱の中で、人は威張ったり、へつらったり、とてもくだらない。そんな未来のために、私は何故、闘わなくてはならないのですか?それでも、私は貴方さえ居てくれたなら、そんな未来だって悪いものではないかもしれないと、そう思ったのです。
 貴方と出会ったのも、そんな小さな箱の中でしたね。この教室ではない、この学校に入学してすぐに詰め込まれた、小さな箱の中。自分が何故その場所に居なければならないのかという疑問さえ持たず、ただ流されるままに多少の不安と期待を胸に抱き踏み入れたあの小さな箱の中で、最初に目を奪われたのは貴方でした。
 切れ長の目で、私を睨みつけるようにして見ていた貴方のあの日の視線を、私は今でも鮮明に思い出すことができます。できたばかりの友人がその様子に、貴方に対して非難めいた言葉を口にしましたが、私は貴方に対して否定的な感情を持つことはありませんでした。後から、貴方はその人を睨みつけるような目がコンプレックスであること、そしてあの日、私に一目惚れしたのだと、そう教えてくれましたね。
 そう小さく照れたように呟き、私を見つめる貴方の目は、世界で一番やさしい目でした。
 あの日の貴方を失った今、私の中には、失われずに残ってしまった貴方の断片が胸を突き刺し、今でも心臓をギリギリと切りつけるのです。
 鞄の中から散らばったノートや文具に紛れて、あたしはその本を手にしました。辻仁成の「冷静と情熱の間」。貴方も、もしかしたらこの本を目にしたのかもしれませんね。でも、本は既に本の役割を果たすことのできないほどに、切り刻まれ、無惨な姿になっていました。
 入学してすぐに貴方と出会い、付き合うことになるまでさほどの時間を要することはありませんでした。夏になる頃には、私の隣には貴方がいました。どちらも互いの気持ちを口にすることはなく、曖昧な時間をいつも過ごした私たちでしたが、あるとき、貴方はこの本を私にプレゼントしてくれましたね。私はその本が江國香織との共著で、一つの恋愛を女性と男性の視線から描いている…という程度の知識はありましたが、実際に手をつけたことはありませんでした。
「どうして男性視点の方なの?」と訊ねると、貴方は呟くようにこれから読んで欲しいんだと云いましたね。私には、あのときその言葉の真意をはかることができず、読んだ後も、ただ「面白かった」という感想を述べることしかできませんでした。きっと貴方はひどく落胆したことでしょう。言葉にして付き合おうと云ってくれたのは、そのすぐ後でした。
 今なら、あのとき男性視点の方を先に読むように勧めてくれた貴方の心が、少しだけわかるような気がします。貴方は、あの本をもって、私に愛情を伝えようとしてくれたのでしょう。あの小説は、内容こそ交わることがない切ない恋愛を辿ったものですが、あの小説に込められた愛情は深く、何より貴方らしい私への愛情の示しだったように思います。私は今でも、あの日の貴方の私への愛情を疑ってはいません。
 人の記憶は、ひどく曖昧なものです。記憶は、美化したり酷化したりして、錯覚の形で私たちの心に留まりますが、貴方は確かに私を強く愛してくれていました。
 だから、私は今でも、貴方の冷たく射るような、まるで蛇のような白い眼を、忘れることはできません。


 命というものは、その愛を選んで宿ると云われます。愛を確信して、女性の小さな子宮に宿るのだと、そう、保健の授業で先生が説いていました。だから、私は自分の身体に小さな命が宿ったのだとわかったとき、とても幸せでした。まだ十代、しかも高校生という幼さだったのですから、前途は多難であることには違いありませんでしたが、私の未来には貴方がいて、宿った命と共に生きていくのだと、そう信じていたのです。
 誰もが、十代のときの恋愛など、一時の戯れに過ぎず、本物の愛ではないと云います。ですが、私は幼いながらもそのとき精一杯の愛情を貴方に抱き、稚いながらもその愛情を大事にしてきたのです。
 ねぇ、貴方。私は本当に貴方を愛していました。だからこそ、貴方が憎い。憎くて、憎くて、溜まらないのです。
 貴方に見せようと思って持っていった妊娠検査薬。不意な事故で鞄が腕から離れ、それが教室の中で露出したとき、教室の中は騒然となりました。「おまえの子なのか」と周囲が貴方に問いつめる中で、貴方はたった一言、冷たく吐き捨てるように云ったのです。

「俺の子じゃない」





 私の妊娠騒動は、学校全体に知れ渡り、すぐに先生の耳にも入りました。両親が呼ばれ、貴方も問いただされる中で、貴方は「知らない」の一点張りでしたね。
 その貴方の言葉を、どれだけの人が信じていたのかはわかりません。ならば誰の子だと問いただされても、私はただ突然目の前に落ちた絶望を咀嚼することができず、言葉を持ちませんでした。
 今でもよく覚えています。薄暗い手術室、冷たい金属が身体の中に入る感触、そして麻酔に朦朧とする中で呟いた、「ごめんなさい」という言葉。真っ白な天井を見つめながら、ただ泣くことしかできなかった、小さな病室のベッドの上。
 学校へ戻ると、更なる追い打ちが私に降り掛かりました。「売女」と書かれた張り紙が、私の机に張られていました。その日を境に、私はその教室で孤立しました。
 貴方は、私と目を合わそうとはしませんでしたね。私が周囲の餌食にされるのをただ遠目から見ていただけでした。
作品名:遺書 作家名:紅月一花