Another Tommorow
Chapter 5. 夜の向こう
「押すぞ、押すからな。キャンセルできないぞ、いいな!?」
「いいって何回言えば良いんだ」
「だって一食分にこんな高い金払うの初めてなんだもん。失敗したら嫌じゃんか」
一瞬、弟のため息が聞こえたような気がするが、貧乏性なものは仕方がない。父は公務員だから普通に暮らしていれば生活に困ることはない。祖父は現役時代の貯えと年金でかなり優雅な暮らしをしていて、今度引っ越すことになった介護付きマンションにしても、入居の際に払う額も、月々の家賃も全部自分ひとりで負担するそうだ。そもそも年金が入らなくても余裕で生活できるだけの財産があるので、二十歳を過ぎた孫にも未だに毎月小遣いをくれる。バイトもせずに、課外活動といえば病院ボランティアと近所の子どもたちと遊ぶことに明け暮れているわりに遊ぶ金にも困っていないのは祖父のおかげだ。尤も、こんな田舎で金をかけて行くような遊ぶ場所もあまりないのだが。
けれど、ここ数年の一家の台所担当としての生活は、こと食費に関して飛鳥の経済観念を作り上げるのには十分だった。田舎のご多分に漏れず、杉宮の外食文化はせいぜい数軒の蕎麦屋とラーメン屋と居酒屋ぐらいしか機能しておらず、子どものいる家庭では外食は滅多にない一大イベントだ。出来合いの惣菜や冷凍食品も使うことは使うが基本的には手料理が中心の生活を送るうち、自然と飛鳥の中で日々の食費は3人分で平均一食千円前後であるものとなっていった。
多少奮発したところで家計を圧迫することなどないし、そのことをわかってもいる。だいたいこの程度、食べ物以外の買い物では普通に財布から出て行く額だ。吝嗇なつもりもないし、そもそも家計簿もつけたことがない。実を言うと毎月の家計の収支もきちんと把握してはおらず、父の預金口座から必要額を勝手に引き出して使っている。一応貯蓄はできているとは聞いている。今年も家で年越しをするならちょっと奮発してみようと最初に考えたのも、自分に気合を入れる意味も込めて滅多にしないお取り寄せという贅沢をすることに決めたのもほかならぬ飛鳥自身だ。けれど。
「……自分が金に糸目はつけないって言ったんだろ」
大和が呆れたように呟く。わかっていても、それでもマウスを持つ手が少し震える。
「言ったけど、……あまりに普段の食費と違いすぎて」
要するに、食費のためにこの金額を出すという感覚に慣れていないだけなのだ。だいたいの相場もわかっていたし、物凄く今更といえば今更だ。買っても、余程それが期待はずれな味でもない限り後悔することもないだろう。けれど。
「あああ、やっぱりお前にやっといてもらえばよかった……」
アナログ体質で現金以外で買い物をしたがらない父の代わりに、家族でクレジットカードを持ち歩いているのは自分だった。それに気づいたのは大和が帰ってしまった後で、結局退院してから自分で注文することにした。考えてみれば大和はまだネット通販を利用したことがなかったような気もする。
どれを取り寄せるか自体はすぐに決まった。しかし、しかし。
迷う理由などどこにもないはずなのに、もうかれこれ一時間以上はパソコンの前で逡巡しているのだ。ずっとそこにいたわけではなく、夕飯の準備をしたりなんだりで一応作業能率は落ちてはいないのだけれど、ブラウザはこのページが開きっぱなしだった。
最初はそんな兄の様子を面白がっていた節のあった大和も、明らかに苛々し始めている。「そんな調子だったら一生かかっても買えないよ」と言う口調に、少し棘が混じっているような気がするのは多分気のせいじゃない。
「わかった、決める」
そう口にしても尚、「注文」のボタンのところで、マウスポインタが妙な揺れ方をする。人差し指を動かすだけで、できるのに。背後に立って様子を見ていた大和が「ああ、もう、鬱陶しい」と言うなり飛鳥の右手を押さえつけた。かちんと音がして、画面が切り替わる。
「あー」
飛鳥は思わずそんな間抜けな声を上げてしまった。画面には「ご注文ありがとうございました」の文字が表示されている。
「注文しちゃったな……」
暫く弟の顔とパソコンの画面とを交互に見やって、そのうちに何故か変な笑いがこみ上げてきた。
「よし、これで俺当分死ねないわ」
全身がまだなんとなく痛かったけれど、肋骨以外に折れた箇所もなし、これ以上病院にいてもできることはないので飛鳥は予定通り火曜日の午後に退院した。この日も大和がパーティの準備を早抜けして迎えに来てくれて、荷物をすべて持ってくれた。ここのところ3日連続で副会長に生徒会の行事をさぼらせてしまい、少し申し訳ない思いであったのだけれど、大和が言うには正直に「兄が交通事故に遭った」と話したところ、何の問題もなく直ぐに早引けの許可が下りたという。
それはいいとして、今日と昨日については何故か昼食の寄付まであったらしい。さすがに毎日は無理だけれど、できる限り大和の弁当は飛鳥が作って持たせている。実習や一限の講義以外では早起きをできるだけしたくないので、おかずは朝食同様前日のうちに温めればいいだけの状態まで準備を終えているものがほとんどだけれど、それなりに手は込んでいる。大和の弁当や日々の食事が兄の手料理であるということは、何故か生徒会執行部の間で知れ渡っているらしく、昼休み、生徒会室で行きがけに駅のキオスクで買った菓子パンを齧っていると、次々にみんなが気の毒がっておかずを分けてくれたそうだ。別に普段から飛鳥がお弁当を作る余力のなかった日はパンやおにぎりだったりするし、珍しいことでもないのに。
(もしかして、俺あいつの仲間の間で変なイメージついてる?)
そんな絶妙に嫌な予感が、最近漠然と飛鳥の胸のうちに広がりつつある。
飛鳥と大和は4年違いで、その両方と在学期間が被るのは飛鳥の2年下、現役であれば今大学1年の学年だけだ。高校時代は一応料理部と囲碁将棋部を掛け持ちしていたが、どちらもヒラ部員だったから生徒会と直接やりあうような機会はなく、誰より早く帰宅するので後輩との繋がりもあまりなかった。大和が入った時点の梅山高校で飛鳥本人を知る人は教職員以外と、小中学校からの大和の同級生ぐらいしかいない。とすると、大和の周辺での飛鳥のイメージは、それほど口数の多くない大和の齎す断片的な情報から形成されていくはずだ。
お母さんを早くに亡くした家の、看護師を目指している、弟のお弁当を作ってくれるぐらい料理上手のお兄ちゃん。
どういうわけか寒気がした。
「……なんだかよくわからないけど、明日はちゃんと弁当作るよ、どうせ学校休むし」
一瞬頭に浮かんだ妙にたおやかではかなげかつ可憐な自分のイメージを全力で振り払って言うと、大和が心配そうに少しだけ背の低い飛鳥を覗き込んだ。
「無理するなよ」
「大丈夫大丈夫。内臓も脳味噌も無事だからこれが原因で死にはしないよ」
作品名:Another Tommorow 作家名:なつきすい