ひだまりの微笑み
ずっと心を覆っていたもやもやが綺麗サッパリ晴れてしまったのだ。梨絵はすごく大人なのだと思う。たぶん知っていたんだろう。
私は、ああ、人間って立ち直れるんだな――ということを初めて知った。
音楽なんてどうでもいいじゃん、彼氏作りなよ――って言われた。
少しムッとしてしまった自分に苦笑いして、失礼だと分かっててそんなことを言ってくれる梨絵はやっぱり親友だなと思った。
――さて。
突然だけど、大学の4回生っていうのは暇なのだ。大学は単位制だから、4年間の決められた単位数さえ先に取ってしまえば、最後の一年は暇になる。
音楽を忘れ、就職が決まり、彼氏は出来なかったけれど。
そこで空白の時間が出来てしまったのだ。あるいは、私の人生に用意された長期休暇だったのかも知れない。
タイミングよく手紙が来た。
誰から?
そんなの考えるまでもない。私はいま、母校の中学校の前に立っている。
なんだか学校内は騒がしかった。それも生徒たちだけでなく、いろんな一般の人達がいる。
――大学、中退してたんだって。
学園祭とは少し違う。地元のボランティア団体が催す小さなお祭り。そんなイベントに私は名指しで招待されてしまったのだ。
――アトリエに弟子入りして、頑張ってるんだって。
体育館の方から、大気に溶けすぎてよく分からなくなったバンド演奏の音が聞こえる。
PTAだか教師だかがゴザを広げて家電品バザーなんかやってて、運動場に所狭しと出店が並んでて、制服姿の学生も私服姿の少年少女も一般人も入り乱れ。車椅子の人なんかもいた。
小さなお祭りという割に、かなり賑わってるなぁと感心した。
――けっこう、いい線いってるんだ、って。
ファンシーな着ぐるみのうさぎに赤風船を押し付けられた所で、私は不意に校舎を見上げて動けなくなった。
何も、変わってないように見える校舎の。音楽室の窓の向こうで、吹奏楽部たちが演奏していた。
――音楽室、で。
「やっ、お待たせ」
「うあ」
どん、と背後から梨絵が襲撃してきて、私の物思いは終わってしまったけれど。6秒間の沈黙の間に、私が脳裏で描いていた横顔が誰のものかなんて考えるまでもない。
梨絵を呼んだのはもちろん私だ。食い意地女子大生二人組でしばらく食べ物を漁ったのち、事情を知っていた梨絵はバンド演奏を見に行ってくると言い、私は用事を果たして来ると言って別れた。
また一人、お祭り騒ぎの校庭に取り残されて音楽室を見上げてしまった。まったく我ながらばかだ。中学にいるからって、中学生に戻ったような気分になってるのかも知れない。
自分に苦笑して歩き始めた。迷いなんてない。有り得ない。頭の中で一周することだってできる。あの頃、三年間ずっと通い続けた学校なのだから。
あれから、もう七年だ。
目指す場所は美術室。そこで、誰か、いまイチオシの新人さんの個展が開かれているらしい。
もちろん地域団体開催の小さなお祭りの隅っこの、プロなのかアマなのかも分からない程度のものなのだけど。だけど晴れ舞台にはかわりない。ご本人も、今日はずっとその美術室にいて、一枚500円で似顔絵なんかをやってるんだそうな。
校舎の中はやっぱり学園祭じみていた。
一階、職員室の壁も装飾されていて、目的の美術室はもっと装飾されていた。
飾られた絵。見覚えのある絵も何枚かある。きっと、この閉ざされた扉の中にはもっとすごい絵があるのだろう。
――――7年間。
私の知ることがなかった、彼の歩んだ道のりの展示会場。
ちゃんと話せるんだろうかと自問する。
まったく不思議なことに――ほとんど連絡さえ取ってなかったっていうのに、私はきっと、あの頃と何も変わらない調子で話せるという確信があった。
残念なことに、私は音楽とは決別してしまったけれど。
今日のこの日見るものの記憶で、胸の空洞の最後の隙間を埋めてしまおうと思うのだ。
二人きりの、夕暮れ音楽室の果て。
「情けない」って笑われるかも知れないけれど。
――――梨絵は、「恥じることなんて何もない」って言ってくれた。
がらり、扉を開けると陽だまりだった。白い真昼日がカーテンの隙間から差し込んでいて。
中学生用の小さな席に腰掛けて、学生の似顔絵を描いていた。やっぱり大人になっていて、けれどあの頃と違うのは、繊細な輪郭のどこかに昔はなかった力強さが感じられたことだろう。
彼がこちらに気付いて手を上げ、私もやっ、と手を振り返す。よく分かったなって思ったけど、残念なことに私の方は何も変わってないんだった。
似顔絵に戻る彼の姿が立派に思えて、思わず目を細めてしまう。
壁に掛けられた絵画たち。
驚いた。
とくん、なんて胸が高鳴って苦笑した。
「………もう……」
昔から過剰にきれいな目で周囲を見る人だった気がするけれど、これだけは、まったく美化しすぎだと思う。なんて繊細で、穏やかで、そして熱っぽい思いに満ちた絵なのだろう。
――夕日色。
私の目に映っていたのは、恋するような優しいタッチで描かれた、ピアノを奏でる音楽少女の美しい横顔だった。
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