篠原 生誕
さらさら
さらさら
水音が聴こえる。
遠く微かな水音が、耳をよぎっていく。
それから、微かな声がする。それは、とても小さくて聞き取れないほど小さな声。
ゆっくりと、それは現実味を帯びて、耳に届きはじめる。
いつもの声がして、それから、笑い声が聞こえて、
ゆっくりとゆっくりと、水音の世界から乖離していく。
・・・おなかがすいたの・・・・お願いよ・・・ねぇ・・・私に・・・おいしい・・・ジュースを・・・作って・・・・もう、ちっとも起きない。ひどい人、こんなに私が空腹なのに・・・餓死したらどうするの? ・・・
パタパタと、枕を叩く音。そして、眩しい光が瞼に感じられる。たぶん、朝。そして、傍でからかうように起こしているのは、自分の妻で。
「・・・うん・・・餓死しないでよ、雪乃・・・」
ようやく動き始めた頭で、そう呟くと、途端に盛大な笑い声が聞こえて、身体の上に重石がかかる。
「・・・おもい・・・」
・・・・だってえ、まだ起きちゃダメだから・・・お眠りくださいな、旦那様・・・
「・・餓死するんでしょ?・・・」
・・・うん、まだ大丈夫・・少しだけ、こうやっていたいから・・・・
「・・・空気・・・吸えないよ・・・」
・・・もう、大袈裟だわ・・・ほら、これならいいでしょ?・・・ねっ、ほら、もう少し・・・
「・・・寝るの?・・・」
・・・そう、もう少し眠って・・・私の声だけ聴いていて・・・それだけでいいから・・・
「・・うん・・・」
また、少し水音がする。陽光を感じているのに、水音が聴こえる。そして、妻の陽気な声が一緒に聴こえてくる。楽しそうに、何かを話している。内容までは聴き取れない。
さわさわと、水音がして暖かいものに包まれて、まるで胎児のようにまどろむ。とても気持ちがいい。
結局、ブランチということになった。妻がジュースを飲みたいと言う時は、果物を大量に仕入れている。それを組み合わせて、おいしいものを作れというのだ。別に、妻だって料理はするのだが、なぜかしら、これは、夫の仕事ということになっている。
「ゴールデンキウィとグレープフルーツ。そのまま同比でいけそうな感じだね。」
これに、クラッシュアイスと、レモンのペリエ少々で、あっさりとしたフレッシュジュースになる。たまには、ピクニック気分で、庭の芝生に席をこしらえる。
「作るだけ? ほら、口をあけて。」
真っ青な空の下で、読みかけの雑誌を開いたら、妻に強引にパンをねじ込まれた。
「ジャムぐらいつけてよ。」
「いちご? 」
「嫌がらせしてる。」
「お子様には甘いジャムでしょ? 」
少し年上の妻は、いつも、こう言ってからかう。今更、そんなこと言われても笑うぐらいだけど。
ちゃんと、甘くないマーマレードの載せられたパンがやってきた。ずっと一緒に暮らしていて、お互いの好みだってわかりすぎるぐらいにわかる。会話なんてしなくてもいい。ただ、心地よい空気があるだけの空間。
「次は卵。」
塩の付いた白身の欠片だけが口に運ばれる。それを無意識に食べながら、また雑誌を読む。
「少し付き合ってくれる? 」
「うん、なに? 」
「散歩という名のショッピング。」
「微妙だなあ、それ。比率によるよ。」
「八割。」
「どっちが? 」
「散歩が。」
「なら、いいよ。」
穏やかな空気が心地よい。口元に届けられたストローから、ジュースを吸い上げて、クスクスと笑った。なんだか久しぶりに、のんびりとしているのが楽しくておかしい。読みかけの雑誌が風でパラパラと捲れていく。
「洗濯してからでいい? 」
「いや、ただいまから外出。」
「せっかく、いい天気なのに。」
「たまには、妻のことを優先するべきだと思わない? 篠原君。」
「・・・・えっ?・・ああ、うん。」
普段から逆らった記憶はないのだけど、妻のほうは後回しにされていると認識しているらしい。
「花束が欲しい。」
「はいはい。」
「大きくなくてもいいから、あなたが選んだ花がいい。」
「金木犀が好きなんだけど、あれって花束にできるかな? 」
「さあ? 花屋さんと相談して。」
すっかりと食べ終わったブランチを片付けて、ふらりと出かけることになった。
もうすぐ冬という季節だ。寒いのは、それほど苦にならない。散歩八割のショッピングだというのに、わざわざ遠出をする。花束なんてものが欲しいと妻が言うからだ。金木犀は時期が終わっていて、それに木だから花屋にはなかった。
「僕が好きな花じゃなくて、きみが好きな花にすれば? 」
「だめ。」
あんまり花屋なんて行かないので、いきなり連行されたって選ぶどころではない。花の名前なんてわからないし、種類だって、よくわからない。実家で目にするぐらいのことだから、さて、どうしようか、と、花を見回す。深紅の薔薇がガラス越しに目に飛び込む。
「あれ、どう? 」
「薔薇? シャネルかしら。」
ローテローゼと呼ばれるものです、と店員が教えてくれた。深い紅色の薔薇は、妻の手に似合いそうだと思った。鮮やかな装いをしているわけではないけど、それを手にした妻は想像してもきれいだったから。
「あれにしよう。あれなら、雪乃とのコントラストがよさそう。」
「・・・うーん、想像していたのと違うけど。」
「ん? 」
「こう、篠原君は、コスモスとかカスミソウなんかを選ぶだろうと。」
結婚したのに、未だに苗字で呼ぶ妻は、「名前なんて・・・あははは」 と、誤魔化すばかりで、絶対に呼ばない。まあ、生まれて、この方ずっと見知っているのだから、今更だと、僕のほうも思う。最初から、僕のほうは、雪乃と呼び捨てにしていたのだから、こちらも変わっていないといえば、そういうことになる。妻は店員に頼んで、とても大きな花束を作らせた。ローテローゼだけの花束。やっぱり、よく似合う。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
それを手にすると、車をひろう。家に帰るのかと思ったら、意外な行き先へと向かうので、何か祝い事でもあるのかと考えた。思い出す限り、そこへ届ける意味がわからない。
「結婚記念日か、何か? 」
「はあ? 」
「えっ、だって、おとうさんもおかあさんも誕生日は夏ごろだったはずだ。詳しくは知らないけどさ。」
「本日の日付を、よく考慮していただけませんかしら。」
「本日? 何日だっけ? 十一月だよね。」
「そう、本当はね。あの人たちの墓前なんてものがあれば、そこに捧げたいんだけど、ないからね。代理ということで、おかあさまに受け取っていただくことにしたの。」
理沙なら大喜びしたのにね、と残念そうに付け足される名前は、実母の名前。僕の両親は、僕が小さい頃に身罷っている。雪乃は、とても仲が良かったと聞いている。
「・・・なんで? 」
「あなたを産んでくれたことに感謝を。板橋のおかあさまには、育ててくれたことに感謝をするわ。そうでなければ、あなたは、ここに今、いないでしょ? 」
「あ、僕・・・」
「うっかりさんにも、ほどがあるわよ、篠原君。自分の誕生日くらい覚えておいて。」
さらさら
水音が聴こえる。
遠く微かな水音が、耳をよぎっていく。
それから、微かな声がする。それは、とても小さくて聞き取れないほど小さな声。
ゆっくりと、それは現実味を帯びて、耳に届きはじめる。
いつもの声がして、それから、笑い声が聞こえて、
ゆっくりとゆっくりと、水音の世界から乖離していく。
・・・おなかがすいたの・・・・お願いよ・・・ねぇ・・・私に・・・おいしい・・・ジュースを・・・作って・・・・もう、ちっとも起きない。ひどい人、こんなに私が空腹なのに・・・餓死したらどうするの? ・・・
パタパタと、枕を叩く音。そして、眩しい光が瞼に感じられる。たぶん、朝。そして、傍でからかうように起こしているのは、自分の妻で。
「・・・うん・・・餓死しないでよ、雪乃・・・」
ようやく動き始めた頭で、そう呟くと、途端に盛大な笑い声が聞こえて、身体の上に重石がかかる。
「・・・おもい・・・」
・・・・だってえ、まだ起きちゃダメだから・・・お眠りくださいな、旦那様・・・
「・・餓死するんでしょ?・・・」
・・・うん、まだ大丈夫・・少しだけ、こうやっていたいから・・・・
「・・・空気・・・吸えないよ・・・」
・・・もう、大袈裟だわ・・・ほら、これならいいでしょ?・・・ねっ、ほら、もう少し・・・
「・・・寝るの?・・・」
・・・そう、もう少し眠って・・・私の声だけ聴いていて・・・それだけでいいから・・・
「・・うん・・・」
また、少し水音がする。陽光を感じているのに、水音が聴こえる。そして、妻の陽気な声が一緒に聴こえてくる。楽しそうに、何かを話している。内容までは聴き取れない。
さわさわと、水音がして暖かいものに包まれて、まるで胎児のようにまどろむ。とても気持ちがいい。
結局、ブランチということになった。妻がジュースを飲みたいと言う時は、果物を大量に仕入れている。それを組み合わせて、おいしいものを作れというのだ。別に、妻だって料理はするのだが、なぜかしら、これは、夫の仕事ということになっている。
「ゴールデンキウィとグレープフルーツ。そのまま同比でいけそうな感じだね。」
これに、クラッシュアイスと、レモンのペリエ少々で、あっさりとしたフレッシュジュースになる。たまには、ピクニック気分で、庭の芝生に席をこしらえる。
「作るだけ? ほら、口をあけて。」
真っ青な空の下で、読みかけの雑誌を開いたら、妻に強引にパンをねじ込まれた。
「ジャムぐらいつけてよ。」
「いちご? 」
「嫌がらせしてる。」
「お子様には甘いジャムでしょ? 」
少し年上の妻は、いつも、こう言ってからかう。今更、そんなこと言われても笑うぐらいだけど。
ちゃんと、甘くないマーマレードの載せられたパンがやってきた。ずっと一緒に暮らしていて、お互いの好みだってわかりすぎるぐらいにわかる。会話なんてしなくてもいい。ただ、心地よい空気があるだけの空間。
「次は卵。」
塩の付いた白身の欠片だけが口に運ばれる。それを無意識に食べながら、また雑誌を読む。
「少し付き合ってくれる? 」
「うん、なに? 」
「散歩という名のショッピング。」
「微妙だなあ、それ。比率によるよ。」
「八割。」
「どっちが? 」
「散歩が。」
「なら、いいよ。」
穏やかな空気が心地よい。口元に届けられたストローから、ジュースを吸い上げて、クスクスと笑った。なんだか久しぶりに、のんびりとしているのが楽しくておかしい。読みかけの雑誌が風でパラパラと捲れていく。
「洗濯してからでいい? 」
「いや、ただいまから外出。」
「せっかく、いい天気なのに。」
「たまには、妻のことを優先するべきだと思わない? 篠原君。」
「・・・・えっ?・・ああ、うん。」
普段から逆らった記憶はないのだけど、妻のほうは後回しにされていると認識しているらしい。
「花束が欲しい。」
「はいはい。」
「大きくなくてもいいから、あなたが選んだ花がいい。」
「金木犀が好きなんだけど、あれって花束にできるかな? 」
「さあ? 花屋さんと相談して。」
すっかりと食べ終わったブランチを片付けて、ふらりと出かけることになった。
もうすぐ冬という季節だ。寒いのは、それほど苦にならない。散歩八割のショッピングだというのに、わざわざ遠出をする。花束なんてものが欲しいと妻が言うからだ。金木犀は時期が終わっていて、それに木だから花屋にはなかった。
「僕が好きな花じゃなくて、きみが好きな花にすれば? 」
「だめ。」
あんまり花屋なんて行かないので、いきなり連行されたって選ぶどころではない。花の名前なんてわからないし、種類だって、よくわからない。実家で目にするぐらいのことだから、さて、どうしようか、と、花を見回す。深紅の薔薇がガラス越しに目に飛び込む。
「あれ、どう? 」
「薔薇? シャネルかしら。」
ローテローゼと呼ばれるものです、と店員が教えてくれた。深い紅色の薔薇は、妻の手に似合いそうだと思った。鮮やかな装いをしているわけではないけど、それを手にした妻は想像してもきれいだったから。
「あれにしよう。あれなら、雪乃とのコントラストがよさそう。」
「・・・うーん、想像していたのと違うけど。」
「ん? 」
「こう、篠原君は、コスモスとかカスミソウなんかを選ぶだろうと。」
結婚したのに、未だに苗字で呼ぶ妻は、「名前なんて・・・あははは」 と、誤魔化すばかりで、絶対に呼ばない。まあ、生まれて、この方ずっと見知っているのだから、今更だと、僕のほうも思う。最初から、僕のほうは、雪乃と呼び捨てにしていたのだから、こちらも変わっていないといえば、そういうことになる。妻は店員に頼んで、とても大きな花束を作らせた。ローテローゼだけの花束。やっぱり、よく似合う。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
それを手にすると、車をひろう。家に帰るのかと思ったら、意外な行き先へと向かうので、何か祝い事でもあるのかと考えた。思い出す限り、そこへ届ける意味がわからない。
「結婚記念日か、何か? 」
「はあ? 」
「えっ、だって、おとうさんもおかあさんも誕生日は夏ごろだったはずだ。詳しくは知らないけどさ。」
「本日の日付を、よく考慮していただけませんかしら。」
「本日? 何日だっけ? 十一月だよね。」
「そう、本当はね。あの人たちの墓前なんてものがあれば、そこに捧げたいんだけど、ないからね。代理ということで、おかあさまに受け取っていただくことにしたの。」
理沙なら大喜びしたのにね、と残念そうに付け足される名前は、実母の名前。僕の両親は、僕が小さい頃に身罷っている。雪乃は、とても仲が良かったと聞いている。
「・・・なんで? 」
「あなたを産んでくれたことに感謝を。板橋のおかあさまには、育ててくれたことに感謝をするわ。そうでなければ、あなたは、ここに今、いないでしょ? 」
「あ、僕・・・」
「うっかりさんにも、ほどがあるわよ、篠原君。自分の誕生日くらい覚えておいて。」