冬の海辺
深い溜息をついたグラシャルに、ハルは困ったように微笑んだ。
ハルが周囲の反対を押し切り、領主としての仕事に赴く航海にルーディを伴うようになったのは夫が死んでからのことで、そのためルーディを一度宮廷へと言う国王の命令を、ハルは再三無視してきた。
王に近い権力を持つ連合国家の貴族とて、一応は国王に仕える身である。今度の命令に逆らえば、処罰の対象となってもおかしくはない。
「まぁ、そんなことを今更言っても仕方がない。実際喪に服すことなどできはしないのだからね……ルーグは私が黒いドレスに身を包み、ヴェールを被って貴婦人らしく鎮座ましましと、教会で亡き夫を思って泣き暮らすなど望んではいなかった。だから遺言にも態々そう書いたんだ。宮廷行きたくなさを理由に、ルーグの遺志に背いてまで喪に服したいとは思わぬよ」
ハルの夫である先代領主のルーグが生前残した妻宛の遺書には、「己の死後、妻が己の喪に服することを禁じる」とのみ書かれてあった。
夫を亡くした貴婦人が、最愛の存在だった夫のために短くて一年、長くて数年の喪に服すのは当然とされた時代に、その遺書はいろいろな意味で異色である。
尤も、異色と取ったのは主に噂を聞いた領外の人間で、領主夫婦の関係をよく知る領内の人間は、反発するよりもあまりにも「らしい」と納得してしまった人間の方が遥かに多かったのだが。
「あれは潮風の中に立つ私が一番好きだといった。このままで居て欲しいとも言った。それが望みだったのだから、そうするさ。幸いルーディがいるし、跡継ぎには困らぬ。再婚しろと言われることもなかろう」
な?と膝の上の息子を見下ろすと、意味も解っていないだろう様子でルーディは無邪気な微笑みを母に向ける。
可愛いやつめ、と息子の頭を撫でるハルの、その様を見て、グラシャルもくく、と喉を鳴らして微笑んだ。
「確かにな。今更他に跡継ぎも必要ではない。有能な側近も居ることだしな?」
俺のような、とわざわざ自分を指差して胸を張る大男に、ハルの唇に苦笑が登る。
「自分を有能と言うのなら、口の利き方に気をつけたらどうだ。先ほどのような気持ちの悪い口調は、ルーディにではなくまず私に対して使うべきではないのか」
「人前ではきちんと使ってやっているだろう。大体、実際に使えば気持ち悪いからやめろと言うばかりなのはお前だ。俺はいつでも臣下の礼だけは欠かしたくないと、心底から思っているというのに」
「嘘つきは地獄で舌を抜かれるぞ」
「嘘なものか……で、どうするのだ。王になんと返事をする?」
くつくつ肩を揺らしながら笑ったハルに、ふざけるのは仕舞いだ、と真面目な顔でグラシャルが聞いた。
答えを促されて、ハルも笑いを収める。ひとつ息をついてから、膝の上の息子を見下ろした。
「そうだな。では我らが侯爵様に直接お伺いしてみよう……ルーディ、王様がお前に会いたいと仰られているが、お前はどうしたい?」
「王様に会うって、お城にいけるの?行けるなら行きたい!」
丁度新しいものやことに興味を覚え始める年頃の子供は、母に聞かれて無邪気にそう答えた。
お城って一回行ってみたかったの!と笑う息子の額に、ハルは自分の額をくっつけてじっと、己と同じ色の息子の瞳を見つめる。
「お城にはたくさん魔物が居るぞ。ルーディに退治できるか?」
「お城に魔物が居るの?」
「居るとも。ハゲ茶瓶の嫌味やら人間の皮を被った大猿もどきやら何やら、てんこ盛りに目一杯だ。どうだ、それでも行くか」
「……母様は一緒じゃないの?」
母に低い声で脅されて、ルーディは無邪気な好奇心に輝かせていた顔を瞬く間に不安の色に染めて、眉を下げながらおずおずと母に聞いた。
そんな怖いところなら一人で行くのはいやだ、と視線で訴える息子に、ハルが堪えきれずに噴出す。
「一緒だとも!可愛いお前を、一人魔物の巣窟などにはやらぬさ!」
あはは、と声を上げて笑った母に、不安に満ちていた子供の顔が一気に安堵の色に染まった。
つられたようにニコニコと笑った息子の頬を両手で挟んで、ハルはルーディの顔を覗き込む。
「では母と一緒に参ろうか。安心しろ、魔物退治のやり方は母が教えてやる。ルーディの父が私に教えてくれたようにな」
「父様が?」
「そうだ。母も昔、ルーディの父に魔物退治の仕方を教わって、お城に行ったのだよ。……何、心配することはない。お前は父親によく似て賢く、母に似て強い。父親のような立派な男になるのも、きっとすぐだ」
父親のような男、と言われて、母の言葉に耳を傾けていたルーディの顔が、嬉しそうな色に輝いた。
それを見たハルもまた、柔らかく微笑む。
「ルーグと私の息子であることを誇りに思え。お前は良い男になるよ。十年後が楽しみだな」
こくこくと何度も頷き、小さな両腕を精一杯広げて母親に抱きついたルーディをかかえたまま、ハルはひょいと椅子から立ち上がった。
腕を組んで母子を見ていた側近の傍を通り抜けて扉に向かおうとする直前、思い出したように振り返る。
「ああ、そうだ、グラシャル」
呼ばれて側近は、片眉を跳ね上げて返事と為した。
主もそれを見取って、唇の端に皮肉な微笑みを浮かべる。
「今年の宮廷伺候には、西の原の領主は参加するのだろうな?」
「西の原の領主、と言うとあの型破りな政治をすると評判の?」
問われた言葉に、グラシャルも疑問系で返した。
西の原の領主といえば一昨年の秋に就任して以来、色々と新しい事業を起こしたり、自分の代理人に平民を起用したりと型破りな政治で話題を呼んでいる噂の人物だ。
「そうだ。ルーグも気にしていた。是非一度、直接お会いしておきたい」
主が呟くのに、グラシャルはあぁ、と口の中だけで頷いた。
噂の人物のことを考えれば、同じく型破りな己の主が興味を持つのも当然である。
「あそこまで目立つことをやっているのだ。今年は辞退したくても出来ぬだろうよ」
雛と判断したくでもできぬほどのことを、すでにその領主は成し遂げていた。
側近が肩をすくめるのに、ハルは口元の微笑みを深くする。
「……それは面白い。少しやる気が出てきたぞ」
「そうかい。そりゃ良かったって、おい、返事……」
そうしてそのまま踵を返し、さっさと部屋を出て行こうとするもので、グラシャルが慌てて呼び止めると、戸口で足を止めたハルは肩越しにグラシャルを振り返ってにこりと笑った。
「すこしルーディを連れて港まで行って来る。新しい商船を見せてやりたいのでな。だから手紙の返事はお前が適当に書いておいてくれ。あと伺候の支度も頼む。王への貢物の用意と、連れて行く護衛とルーディの世話役のメイドの選別もお前がやれよ。くれぐれも海原の領主は使えぬなまくらを部下に連れていると、宮廷馬鹿どもに侮られることのないように」
くっきりとした笑顔ですらすらと述べた後は、もう制止も聞かずにすたすたと歩いていく主の後姿を見て、グラシャルは大きく息をついて両手で顔を覆い、なでおろし、腰に手を当てて天井を見上げ、そして。
「――……ったく、しょうがねぇなぁ。あんな人使いの荒いジャジャ馬押し付けていきやがって、恨むぞルーグの野郎」