冬の海辺
ざわ、と開け放たれた窓から吹き込む風に、潮の香りが混じった。
風向きが少し変わったな、と、寝台の上で書類の束に目を通していた男が顔を上げる。
書類から窓の外の景色に視線を転じれば、目に痛いほどの青空が、世の果てで海と境を共有しているのが見えた。
僅かに嘆息する。体さえ動けばあの果てまで、己自ら行くものをと思うが、それは叶わぬ夢である。
広大な国土を有するパルメシア連合王国の、東に広がる海原。そこに浮かぶ小島の海際に立つ館で寝たきりの生活を余儀なくされている男は、この館の主で、王国から東に広がる海を治める領主だった。病に倒れて引退し、療養を始めてからすでに数年が立つ。
そんな館の主が一人寝起きしているこの部屋からは、海の一年の表情が余すことなく見て取れた。
冬の海の青は、夏の海のそれより深く、遠い。命を内包し、それ以上に拒む厳しいその海の色を、彼は一年のうちでことのほか愛し、傍付きのメイドが「体に障る」と心配するのも聞かずにこうして窓を開け広げ、日が暮れるまで眺めることが多かった。
そうして吹き込む冬の冷たい風に目を細め、再び手の中の書類の束に視線を落とすとほぼ同時、不意に館の開門を告げる喇叭の音が高らかに屋敷中に響き渡ったので、彼は再び顔を上げた。
今度は窓ではなく、部屋の扉がある方へと視線を向け、書類を寝台脇の傍机の上に置く。
唇に少し微笑を浮かべ、そのまましばらく待っていると、やがて扉の向こうの廊下の遠くから、飛ぶような軽い足音がどんどん此方に向かってやってくるのが聞こえた。
やってくる人物を想像してか、彼の微笑みが一層深くなる。
「ルーグ、今帰った!……なんだ、またこんなに部屋を寒くして。体に障るぞ。ああもう、メイドを変えねばならんな。あれほど部屋の窓を開けてはいけないと、言い含めていったのに」
足音が扉の前で止まると同時、ノックもなく叩きつけるかのように開かれた扉のその向こうには、男より十は年下だろう女性が一人、立っていた。
とは言うものの、扉に立つ女性は、その年頃の女性がするような貴婦人然とした格好は微塵もしていなかった。仕立てこそ良いものを纏ってはいるが、白いシャツと少し色あせたズボンの上から皮の外套を羽織り、腰には剣と言う一種勇ましい出で立ちで、見かけのことだけを言うのなら、女性と言うよりもほとんど少年に近い。伸ばして梳かせば見事だろう深い藍色の髪も、首の中ほどで長さを揃えるも減ったくれもなくばっさりと断ち切られているし、顔にも化粧ッ気などはまったくなく、美人と言うよりは「凛々しい」と言う表現の方がぴったり来るだろう。
「そう怒るな。少し冬の寒さを味わいたくて、メイドに無理を言ったのだ。それにこれこの通り、きちんと厚着もしている。ハルが言うほど寒くはない……それとも私が寒いと言ったならば、君が肌で暖めてくれるのかい、奥さん?」
入ってきた途端、きぃと喚いて足早に部屋中の窓を閉めて回る女……妻に彼が声を上げて笑った後、笑顔のまま手招くと、ハルと呼ばれた彼女は怪訝な顔をして窓辺から夫を振り返った。
「……熱でもあるのか?ルーグがそんなことを言う日が来ようとは。あ、よもや私が居ない間に、若いメイドと浮気でもしたのを後ろめたく思っているのでは」
「開口一番で酷い台詞だな。君は私をなんだと思っているのだ。大体若いメイドと言うが、この館にお前より若いメイドなど居ないだろう……まぁ、改めてお帰り。どうだった、今年の宮廷伺候は」
病に倒れ、政治の表舞台から領主であるルーグが引退して数年。現在彼は妻を摂政に据え、領主の行う仕事のほぼ全てを妻に任せていた。地方領主にとって一年で最も重要な任務である宮廷伺候……パルメシア連合王国の一翼を担う地方の領主が、「王国へ永久の忠誠を示すための貢物」を積んだ馬車行列を従えて、「連合国家元首である国王陛下へ新年の挨拶を捧げる」ために、己が領地から王都までの長い道のりをぐだぐだ行脚するという行事も例外ではない。その為に彼の妻が「軟弱駄目国王に尻尾を振るなんて名目で、何故わざわざ王都くんだりまで行かなきゃならないのだ」と零しながらも例年通り行列を仕立て、この館から王都へと長い旅に出発したのがおよそ一月前のことだ。
招きに応じて寝台の縁に腰を下ろした妻の、少し冷たい手を取りながらルーグが尋ねると、ハルはハハン、と鼻から息を吐き出して苦笑いした。
「何もかも相変わらずだよ。王は軟弱な駄目男で大臣の言いなりだし、その大臣も嫌味ったらしい変態だしで、退屈極まりなかった。……あんな所に毎年毎年参じていたルーグを、心の底から尊敬する」
「何、慣れればなんてことはない所さ。……苦労をかけて済まないな」
溜息と共に言われて、ハルはけらけらと軽く微笑んだ。
首をかしげながら、取られた手をそのまま夫の首に回す。ただいま、と一月の不在を詫びるようにその頬に口付けてから夫の顔を覗き込み、夫の青い瞳と己の紫紺がまっすぐに交錯すれば、尚も破顔一笑して夫の首に回した腕に力を込めて抱きしめる。
「なーに、苦労ぐらい幾らでも背負えるぞ。ルーグと違って体の丈夫だけが取り得だ。気にしてくれるな……ああ、そう言えばルーグが気にしていた『西の原』の新しい領主は、今回は参加を辞退されたとのことでね。あの場には居なかったよ」
「そうか。余り期待はしていなかったんだが、やはりな」
ぽんぽん、と夫が己の背中を軽く叩きながら言うのに、何故そう思うのだ、と顔を上げると、ルーグは困ったように軽く微笑んだところだった。
「辞退なんて言うのは名目上だけのことだろう。西の原の新領主といえば、就任してまだ半年。雛と判断すればあのつわもの大臣が、自分にとってなんの利益にもなりそうにない人間を宮廷に呼ぶなんて、そんな無駄なことをするわけがない。……ただ、私としては体さえ動けば一度、西の原まで足を運んででもお会いしたいのだがね」
「ルーグは去年の秋からそればかりだな……何故西の原の新領主がそこまで気になるんだ?あそこは随分長い間、広いだけが取り得の没落した家系じゃないか。ルーグが目をかけるほどのものは何もない」
王国の西に広がる、荒地の平原を預かる領主が一昨年の冬に死んでから約二年。そこに新領主として去年の秋に就任したばかりの青年のことは、パルメシアにおいて今一番の話題である。そのことをルーグが妙に気にしていたと思い出しながらハルが問うと、ルーグは己の首にかかったままのハルの腕を柔らかく外しながら、やはり小さく微笑んだ。
少し体を起こし、腕を伸ばして先ほど傍机の上に置いた書類を手に取る。
「土地に興味があるわけではないよ。君は新しい事や物には目がないくせに、あの新領主の名前に覚えはないのかい?」
「新しい物も事も大好きだが、操り人形な領主の名前などに興味はないぞ」
書類を捲りながら今度はルーグが妻に問うと、ハルは一瞬きょとんとしてからふいと夫に置いていた視線を外して、そっぽを向いた。
そんな話になるなど面白くない、とでも言わんばかりに、むくれた様子で先を続ける。