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落日の彼方に

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『落日の彼方に』




 ごう、と、無人の電車が通り過ぎ、ぼくはゆっくり目を開ける。
 吹き抜けた生ぬるい風に、舞った粉塵がわずか、ぼくの頬をかすめて散った。
 灰色のターミナルステーションだった。電車の通過と共に、電光掲示板の表示が変わる。当然のように、まわりには誰もいない。
 次の電車は五分後。現在時刻は十八時二十三分。――今日は誰の記憶だろうか。
 申し訳程度に点灯していた、古ぼけた蛍光灯が、今わの際の如く明滅して事切れた。それが合図だと、ぼくはよくわかっていた。
 ぼくのうしろには天使がたたずんでいる。
 ゆるく波打つブロンドの髪に、萌ゆる新緑の双眸。なめらかだろう、陶磁器めいた白い肌。ラフな洋服を身につけた痩身。
 ぼくのうしろには、決まっていつも、天使がたたずんでいる。
 無人の駅構内、天使とぼくの距離は遠くはない。近いとも言えない。ぼくは決して動かず、天使もまた、その美しい貌を哀しみと憂鬱に曇らせたまま、静かに立ち尽くす。
 やがて天使は、光の蔦を伸ばしてくる。
 それは天使の背や足もとから生まれ、するりするりとコンクリを這い、じわりじわりとぼくの体を絡めとる。
 淡く光るそれが、全身を覆う頃、うち一本が襟首のあたりをさまよった。窮屈な詰襟。黒い上下。学生服だった。――今日は、誰の記憶だろうか。
 ぼくがおとがいをわずかに持ち上げると、つられるように、蔦がぼくの頬を滑る。ぼくは目を伏せた。灰色の構内が消えうせ、まるで夕間暮れ時のような薄闇の中、美しい天使だけが浮かび上がる。
 天使は微笑まない。
 美しい貌を哀しみと憂鬱に曇らせたまま、光の蔦でぼくを侵す。
 当のぼくはといえば、ただひたすらに、天使から与えられる陵辱に耐える。それ以外の方法は無い。いっさい無い。
 無人の電車が、ごうと唸り声を上げ、いずこへと去ってゆく。
 ぼくは目を開けた。蔦は目前に迫っており、待ちかねたように、ぼくの左目を貫いた。あ、と、たまらず短い悲鳴を上げたぼくを、しかし天使は当然気にかけることもなく、さらに奥深く、脳みそまで容赦なく、侵してゆく。
 無様に崩れ落ちる体は、蔦によって無理やり吊るし上げられ、留め置かれる。その頃にはすでに、数本の蔦が学生服の中に侵入を果たしていた。
 あ、あ、と、断続的に漏れ出る悲鳴を、天使は認知しているのだろうか。ぼくはきみに、人間で言うところの聴覚が備わっているのかどうかわからない。何もわからない。何も。
 ――何も。




 ぼくは希望だ。
 本来の名前は忘れた。ひょっとしたらあったかもしれないし、もしかしたらなかったかもしれない。
 ただひとつ、ぼくをぼくたらしめる確かなことといえば、ぼくが、人類のただひとつの希望であるということだけだ。人類が残した、託した、彼らの切なる想いの権化だということだけだ。
 高次知的生命体“フォスタライト”に、人類が地上の覇権を奪われて、永い永い年月が過ぎた。
 高次知的生命体“フォスタライト”は、ある日突然、本当に突然、夢物語のように成層圏上に現れ、地球を侵略した。
 当時の世界人口七十億に対し、彼ら高次知的生命体は、その約三倍の数を誇った。それもこの惑星に滞在する数に限ったことで、さらに視野を広げてたとえば銀河系外を含む宇宙、そこには十の八十六乗個ほど存在する――らしい。不確定な憶測だ。人類は結局銀河系外に飛び立つことなく、その種を絶たれたのだから。
 人類は敗れたのだ。種の存続競争に。それももう、気の遠くなるほど昔の史実だ。
 ぼくは、人類が残した、託した、世界最後の“人類”。
 人々の記憶。知識。願い。想い。それらすべてを託され、地上にただひとり残された、人類のただひとつの“希望”。
 ぼくは在り続ける。
 滅び去った七十億の命の分だけ、七十億の記憶を渡りながら。永劫に等しい時間の中、ただひとり、一瞬の生と死を繰り返しながら。




 みたびやって来た電車の窓には、人々の幻が映し出されていた。
 男も女も、皆一様に顔をうつむけていた。席に座し、扉に背をもたれ、吊革を掴み、そんな沈鬱な、けれどおそらくありふれた、失われた人々の幻。
 この記憶の持ち主も、そうした日々を送っていたのだろう。
 頭蓋骨の内側を撫でさすられる感触に、また、ぼくは声を上げた。幻である彼らは、あいかわらず顔をうつむけたまま、このおぞましい陵辱に目も向けない。
 最後尾車両が過ぎ、構内に静寂が戻る。ぽっかりと空いた線路の向こう、いっそおびただしいほどのビルの群れ。雑多な都会の真ん中、灰色のターミナルステーション。在るのはぼくと、ぼくを侵す美しい天使(フォスタライト)。
 四肢を絡めとる蔦が、ぶわりと膨れた。ぼくは力み、無駄なあがきと知りつつ、全身をこわばらせる。
 膨れた蔦はすぐに潰れ、細い細い無数の繊維があふれ出した。淡い燐光をまき散らしながら、ぼくの薄皮を撫で、その隙間を縫うような繊細な動作で、皮下へと侵入してゆく。
 血潮の流れを妨げることなく、深く、さらに深く。筋を撫で、骨を包み、やがて心臓へ。心の在り処へ。
 天使は光の蔦を伸ばす。哀しみと憂鬱に瞳を揺らし、唇を噛みしめ、ぼくを侵す。ぼくを探る。迷い子のように。
 



 地上にただひとり残されたぼくのうしろには、いつも天使がたたずんでいた。
 この惑星を侵略した高次知的生命体――十の八十六乗個もの末端を持つ、宇宙にただひとりの天使(フォスタライト)。
 七十億分の命を生き続けるぼくの、必ずうしろにおり、七十億の記憶の中で、こうしてぼくを侵すのだ。惑星を侵略したのと同じように、隅々までぼくを侵すのだ。
 地球侵略は、ぼくの記憶が正しければ、たったの七日間で完遂された。
 その間、人類は持てる限りの力で抗ったのだろうが、それすら無駄なあがきだった。ぼくが、天使の陵辱に耐えるのと同じように。結局はたやすく、ぼくたちはこの天使に挫かれた。
 地球への陵辱は、七日間で終わった。ぼくへの陵辱は、いまだ続けられる。




 背骨を伝い、髄をくじる蔦に、ぼくはとうとう極めた。
 この、脳にのみ与えられる、快楽に似た衝動は暴力的で、一度達すればぼくは、しばらく絶頂感に声を迸り続けるはめになる。こうしてぼくが極めたからといって、ぼくの内側に潜り込む蔦が退くはずもないからだ。繰り返される刺激のせいで、押し寄せる衝動には間隔すらない。
 深く、さらに深く。もっと奥まで。もっと。もっと。もっと――
「……き、み……は……」
 せり上がる喘ぎに邪魔されながら、ぼくは、たたずむ天使を見上げた。
「きみは……何が、欲しいんだ」
 深く、さらに深く。もっと奥まで。もっと。もっと。もっと――と。
 きみは、何を欲しているのだ。
 もはや己が何者かもわからぬぼくの、何もかもを暴き尽くしておいて、この上何を欲するのだ。
 ぼくは希望。七十億人分の記憶と知識と願いと想いを託された、ただひとりの希望。
 きみは天使。全宇宙に十と八十六乗個もの末端を持つ、ただひとりの天使。
 ぼくはひとり。この惑星でただひとり。
 きみはひとり。この宇宙でただひとり。
「ぼくは――」
 ぼくは、時々思うのだ。
作品名:落日の彼方に 作家名:リョウ