美奈子
知らなければならない鬼の顔は
そう、たいして恐ろしいものではない
だけど、深く辛く冷たいものだ
:
喫茶店に入ると彼女はもう来ていた
そこはかとなく、つめたい顔で
私に手を振った。
あれはもう、ずっと昔のことなのに
まだ鮮明に思い出せる。
東条美奈子は私の親友で
唇にいつも、綺麗な桃色のリップをぬっていた。
この喫茶店の、いつもふたりで座る窓ぎわで
結婚するのと言われた時、私はぎゅっと押し黙った。
それから「マジかよ」と言った。
なにが、「マジかよ」なのかは美奈子も分かったらしく、
「だって…」といったまま、
綺麗な桃色の唇をはんぱにもちあげて
私から目をそらした。
それからすこし、ぎこちなく珈琲にくちをつけた。
「だって、好きなの」
「そう…」
あの日、外はどしゃぶりで
ときおり、真っ暗な空からビカビカと稲妻がはしった。
たらいが転げるような音が何度もして、
そのたびに、臆病な気持ちになったのを覚えている。
カウンターに、おきざりにされたような古びたラジオから
乱れた声で「とうきょう かみなり あらし ちゅういほう」と
アナウンサーが叫んでいた。
ふと見た窓の下の人々は
急にふりだした大雨に
背広をかぶったり、かばんをあたまにのせたりして
みな、耐え難い顔で走りぬいていた。
みんな「つらい」という顔をしていた。
そう、たいして恐ろしいものではない
だけど、深く辛く冷たいものだ
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喫茶店に入ると彼女はもう来ていた
そこはかとなく、つめたい顔で
私に手を振った。
あれはもう、ずっと昔のことなのに
まだ鮮明に思い出せる。
東条美奈子は私の親友で
唇にいつも、綺麗な桃色のリップをぬっていた。
この喫茶店の、いつもふたりで座る窓ぎわで
結婚するのと言われた時、私はぎゅっと押し黙った。
それから「マジかよ」と言った。
なにが、「マジかよ」なのかは美奈子も分かったらしく、
「だって…」といったまま、
綺麗な桃色の唇をはんぱにもちあげて
私から目をそらした。
それからすこし、ぎこちなく珈琲にくちをつけた。
「だって、好きなの」
「そう…」
あの日、外はどしゃぶりで
ときおり、真っ暗な空からビカビカと稲妻がはしった。
たらいが転げるような音が何度もして、
そのたびに、臆病な気持ちになったのを覚えている。
カウンターに、おきざりにされたような古びたラジオから
乱れた声で「とうきょう かみなり あらし ちゅういほう」と
アナウンサーが叫んでいた。
ふと見た窓の下の人々は
急にふりだした大雨に
背広をかぶったり、かばんをあたまにのせたりして
みな、耐え難い顔で走りぬいていた。
みんな「つらい」という顔をしていた。